中小名・主の成長

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 このような耕作農民の成長は、名主のあり方を大きく変えることになった。それはふたつの方向からながめることができる。ひとつは大きな面積をもつ名田がいわば分解して、中小の名主が成長すること、いまひとつは加地子名主が発生することである。まず前者の方からみよう。
 市域内の荘園では、名主の実体をしめす史料が残されていないので、第一巻では豊島(てしま)郡榎坂(えさか)郷(豊中市)の史料を用いて、荘園制の完成期である文治五年(一一八九)の、名主・百姓の階層構成を説明しておいた。すなわち、当時荘園などに住んでいた人々は、(イ)在地領主とみられるずばぬけて大きな田畑を保有する者、(ロ)一家族の経営地としては大きすぎる田畑を保有する地主的名主、(ハ)家族労働を基本として保有地を経営できると考えられる中堅農民の階層、(ニ)保有地だけでは生活維持が困難と思われる小百姓、の四階層に区別できるとし、(ホ)さらに保有地を登録されない農民の存在をも予想しておいた。文治五年のこうした階層構成が、その後どのように変化してゆくか、ある程度推測することはできる。
 まず文治五年から約半世紀をへた延応元年(一二三九)榎坂郷のうち穂積方について、荘園領主の春日大社が検注をおこなって名寄帳(みょうよせちょう)を作成し、翌延応二年に田畑坪付帳を作成している。その内容と文治五年の史料から穂積方だけをぬきだして比較して表示すると、表1のようになる。この表で気づくのは、まず全体として一一三人から七一人へと人数が減少し、とくに一町未満の零細層が激減していることだが、これは両史料が同一の性質のものではないので、じゅうぶん説明できない。ここではこの問題の検討は省略する。つぎに顕著なのは、領主的名主が姿を消し、地主的名主も減少したこと、代わって一町歩から数町歩の中堅名主が増加していることである。そうした中小名主の増加は、地主的な大名主の分解による場合が多いことを、田畑坪付を子細に検討して、ある程度たしかめることができる。そして、そうした傾向は、時代がさがればさらにいちじるしくなる。貞治元年(一三六二)春日大社は榎坂郷全体の名寄帳を作成しているが、その内容を文治五年の場合と比較すると、表2のようになる。この場合も、文治五年は榎坂郷全体、貞治元年は春日大社領のみ、というように史料の性質は異なるので、完全な比較はできないが、中小規模の名主層の進出がいっそう顕著となっている傾向は看取できる。
 

表1 榎坂郷穂積方の経営規模の変化

文治5年延応2年
18町以上1
14~131
13~12
12~11
11~101
10~9
9~821
8~721
7~622
6~554
5~4511
4~3168
3~2917
2~11115
1~05812
11371
平均規模2町5反220歩3町0反000歩

(島田次郎編『日本中世村落史の研究』による)


 
 こうした大規模名主の解体、中小規模の名主の成長という現象が起こってくる背景は、単純ではなく、榎坂郷の場合でも、多くの名で系譜はたどり得るものの、分解の真相を明白に説明できる史料は残されていない。そして、作人が成長して名主になった、とみることは無理であり、一族で分割したり、名主職の売買がおこなわれたり、という場合が多かったようである。だが作人の身分が向上したのと同じ社会の流れのうえで、より小規模な名主が成長する条件がととのい、また大規模の経営が、作人の成長をまえに、しだいに不利となった結果でもあったとみて、まちがいないであろう。
 市域内の荘園では、このような名主層の分解を史料の上で確認することはできないが、同じような傾向がみられたことであろう。
 

表2 榎坂郷の経営規模の変化

単位文治5年貞治1年
18町以上1
18~173
15~141
12~112
11~102
10~91
9~843
8~711
7~646
6~536
5~4144
4~32116
3~22617
2~12943
1~012232
234128
平均規模2町2反330歩2町1反065歩

(島田次郎編『日本中世村落史の研究』による)