名主職が、こうして細分化されてゆくと同時に、質的にも変化しはじめた。そしてそれは、作職の成立と直接に関連する。荘園制のもと、名主職が最下級の職であった段階では、さきにもふれたように、名主職には耕作権も、地主として耕作者から地子をとる権利も、未分化のままでふくまれていた。名主が名田を小百姓に小作させる場合、小作人から、荘園領主に収めるべき年貢と、名主自身のとり分とを合わせて徴収し、そのなかから荘園領主への年貢をおさめた残りが、すなわち名主のとり分であった。
もっとも一二世紀末ごろの状況では、名主や小作人のとり分を、数量的に一定量に固定することは困難であった。名主や小作人の生活費に必要な部分以外は、すべて年貢として荘園領主にとられていたのである。ところが生産が発展したにもかかわらず、つぎにも若干述べるように名主や作人のさまざまなたたかいによって、荘園領主の年貢増徴はしだいに困難になった。とすると、生活費がほぼ一定であるとするなら、従来のあり方に比べれば、余剰が生じることになる。その結果、作人のとり分、地主としての名主のとり分を、数量的に分離してはっきりさせることができるようになった。名実が名田を文字どおり自作している場合でも、地主としてのとり分、耕作者としてのとり分を計算のうえで分離することも可能となった。となると、その地主としてのとり分だけを売却することも可能となってくる。
荘園領主に納める年貢を本地子というのに対して、名主のとり分をふつう加地子という。「加」とは、プラス・アルファの意味である。作職が成立するということは、名主は加地子を取得するだけの、加地子名主となることである。さきに述べた榎坂郷の名主は、こうした加地子名主が含まれているかどうか、確認はできないが、含まれていたはずである。
加地子名主は、通常は名主が加地子を売却することによって成立する。名主が加地子を売却する理由は、もとよりさまざまであったろうが、作職の成立に代表される鎌倉時代後期の社会の発展が、それを可能にしたのである。そして加地子名主は、たんに一定の加地子を取得するだけの権利となり、名主とはいいながら、荘園領主に対して何らの義務をおわない場合もあらわれはじめた。つまり荘園領主への負担は、すべて作人から直接納入される場合もあった。
名主職がこのように売買される職に変質した段階になると、他のいろいろな職も、売買されたり、寄進されたりするようになった。「多田神社文書」をみると、文保元年(一三一七)には摂津国高平(たかひら)荘の地頭職が多田院に寄進され、延慶四年(一三一一)には、多田院内の往生院住持職が、田畑四段半とともに米二〇石の代価で僧住真から尊(そん)阿弥陀仏に売り渡されている。職とは、一定の収入権であるとともに、それぞれ特定の職務をもった荘園制的な身分秩序であったことは第一巻で述べた。それがいまや一定の収入権であるという性格だけが、強くあらわれるようになったのである。