さきにあげた尼妙阿の満願寺九重石塔の仏餉田が寄進された背景には、このような社会の流れがあった。妙阿の場合には、山本荘に納めるべき年貢も合わせて作人から徴収しているようで、加地子の収入権だけをもっていたのではないが、その権利は妙阿自身勝手に処分できる権利であったわけである。
市内の荘園に関する文書で作人職の語は、たとえば正嘉元年(一二五七)の沙弥光阿の寄進状にみられる。光阿は二親の墓所がある池田市の寿命寺(じゅみょうじ)に燈油田二反を寄進しているが、作人職は、光阿が「地本主」として違乱させない、としている。もっともこの寄進状の文面はやや難解で、光阿が二〇貫八〇〇文の銭をもって領家の万雑公事をすべて支弁したとしているが、なお地主として存在しており、加地子の一部を寄進し、その加地子分は作人職保持者より寿命寺に直接納付したもののようである。
さきにも述べたように、尼妙阿やこの沙弥光阿の、信仰心や孝行心だけから、田畑の寄進はおこなわれるものでなく、作職と加地子の成立によってはじめて加地子分の寄進・売買(のちには作職の寄進・売買も)がおこなわれるようになった。そして満願寺や寿命寺、また多田院らも、積極的に田畑の加地子得分の寄進を勧誘していったのではないだろうか。一三世紀後半を画期とする小面積の田畑の寄進・売買は、社会発展の先進地帯である近畿地方に広く共通する現象であった。
中山寺や清荒神には、現在文書としては残されている加地子の寄進状は少ないが、同じように田畑などの寄進がさかんにおこなわれ、寺院の維持や法会の費用にあてられたであろう。
ところでそうした寄進や売買がおこなわれる結果、土地関係は錯綜(さくそう)したものとなってゆく。直接耕作に従事する農民と荘園領主との間に、加地子名主、作人等がおり、それぞれ一定の得分をもつこととなる。それにさらに荘園の領有関係が重層する場合もある。市域に接した賀茂荘にある五段の田を、弘安二年(一二七九)僧菊壱(きくいち)上座と尼蓮(れん)阿弥陀仏が満願寺に寄進したが、五段のうちの二段に関しては、御薗方二斗五升、国分壱斗、領家方一斗五升の本地子がかかると寄進状に書かれている。また下作人職は、寄進をうけた満願寺が進退することとされている。下作人職保有者からみれば、以上の三方面への年貢のほかに、満願寺への加地子を負担することになる。このうち御薗方は橘園、国分は国衙分、あるいは守護領であろう。橘園は山本荘とも重複していた可能性が高い。市内の荘園でもこうした重層関係は当然にあり得たわけである。そしてこのような土地関係の複雑化は、荘園領主の支配力が、相対的に低下することであった。事実荘園の崩壊もここらあたりから深刻となってゆく。