小林荘の伝領

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 小林荘は、後白河法皇によって建立された新熊野社領のひとつにかぞえられていることは第一巻で述べたとおりである。鎌倉時代に入って、この荘園は小林上荘、同下荘とふたつにわかれ、そのうち小林上荘は勧修寺(かじゅうじ)家領としてあらわれ、以後南北朝時代にかけて、数代にわたって伝領されたことをしめす史料がある。
 建長二年(一二五〇)六月二日付で、藤原(勧修寺)資経(すけつね)は荘園などの所領や伝来の文書を子息らに処分する譲状を作成しているが、資経の長子為経(ためつね)に譲った荘園のなかに近江国湯次上荘(滋賀県浅井郡)・出雪国薗山荘とならんで、「新熊野領摂津国小林上荘」がみえる。
 資経の家は、藤原氏北家の一族で平安初期、藤原冬嗣(ふゆつぐ)の孫高藤を祖としてはじまった。高藤は山城国宇治郡大領宮道弥益(みやじいやます)の娘を妻とした。二人の間のロマンスが『世継物語(よつぎものがたり)』などに伝えられている。二人の子胤子が宇多天皇女御(にょご)となって醍醐天皇を生み、胤子の発願で宮道氏の旧宅に勧修寺を建立した。これによって資経のころから勧修寺が家の号となった。勧修寺家は記録の家としても有名で、さきに述べた豊島の牧の施肥のことを記しているのは『永昌記』の紙背文書であるが、『永昌記』は、資経の四代前の為隆の日記である。資経は、高藤からは一三代目にあたる。もっとも資経の官位は正三位大宰大弐(だざいだいに)どまりで、公卿としては二、三流、また父定経は早く出家して祖父経房から義絶されていて、このころは家のなかもまとまらなかったようである。しかし資経のあとは、甘露寺(かんろじ)・坊城(ぼうじょう)・万里小路(までのこうじ)・勧修寺・清閑寺(せいかんじ)・中御門(なかみかど)などの諸家が分立した。こうしたいわゆる藤原氏高藤流の総本家が、勧修寺家であるわけである。
 

写真18 藤原(勧修寺)資経の譲状写
建長2年6月2日「遺言条々」所収(京都大学所蔵)


 
 さて勧修寺家が、いつから、またどのようにして小林上荘を所領とするようになったかについては、不明というほかない。資経は、建久四年(一一九三)熊野神宝用途を調進した功賞として信濃守から三河守に転じているが、このような賞として院庁からあたえられたものであったかもしれない。資経の所領は正治二年(一二〇〇)に祖父経房から伝領したものだが、その譲状が知られるものの不完全で、そのなかに小林荘が含まれていたかどうかはわからない。
 

表3 勧修寺家略系図


 
 さて資経の譲状によれば、
 新熊野領摂津国小林上荘
  此内三十石資継に賜うべし。遁世(とんせ)の如きの時止住の計(はからい)のためなり。
  此のうちまた佃(つくだ)一町代米十石、未来の際を限り、予(資経)ならびに女房後世を訪らはんがため、一音房に附属(ふしょく)し了(おわんぬ)。
とみえる。小林上荘は、全体として為経に譲られたが、年貢のうち三〇石を、出家でもすることがあればその生活費ともなるように、為経の弟資継に分与すること、また一〇石を資経と妻の後世を弔ってくれる僧に与えることとしている。小林上荘全体の年貢高は不明であるが、かなりな年貢高を予想しうる荘園であったのであろう。
 右の史料で、「佃」というのは、ほんらい名田とはちがう領主の直営地をいう。種子や耕作費を領主が負担して名主に強制的に耕作させ、全収穫高を領主がとる田のことである。荘園領主が、荘園をいわば直接経営していたなごりで、領主の支配がもっとも強い田をさす。もっともここでは、「代米一〇石」とあって、通常の年貢負担の田と変わらないものとなっていたようであるが、それでも佃という名称は残っていたのである。なお佃の年貢は一般名田よりも高率なのが一般である。とすると小林上荘の一般名田の年貢は、一反別一石以下ということになる。
 さて小林上荘は、為経からその子経藤に譲られたようであるが、経藤は経俊の子俊定に譲った。経藤は官職のことで異母兄弟の経任と争い、不平のあまり弘長二年(一二六二)四月出家し、そのさい伝来の文書などをすべて焼いてしまった。小林荘の史料も、このとき灰燼(かいじん)となったかもしれない。為経は吉田を号したのに対して、経俊は坊城、あるいは勧修寺を号して家督をついだと思われ、俊定は嫡男にあたる。為経が伝領した三荘のうち、小林上荘だけが、こうして勧修寺家家督にいわばかえってきたのである。
 俊定のあとは、嫡男定資(さだすけ)に譲られ、嘉暦三年(一三二八)定資から、勧修寺家中興の祖といわれる経顕(つねあき)に譲られた。経顕は、次章でも述べるように観応二年(一三五一)子どもの経方に譲り、さらに応安五年(一三七二)にもあらためて譲状をしたためている。
 以上、勧修寺家の小林荘の伝領は、勧修寺家文書中の「遺言条々」と題する一巻にまとめられた写本によって判明する。このうち応安五年の文書はかながきで記されており、口絵に掲げたように「つのくにおはやしの上庄」と記されている(読みは八六ページ)。中世以来、小林は「おはやし」と呼称されていたのである。なお、小林下荘に関しては、鎌倉時代のことはよくわからない。室町時代後期には次章で述べるように京都西山の三鈷(さんこ)寺領としてあらわれる。
 

写真19 空からみた小林付近