このように述べてくると、小林荘の伝領は平穏におこなわれたようにみえるが、経藤から俊定への伝領をめぐって、大きな紛争があった。為経の弟資通(すけみち)が、伝領の権利を強く主張したのである。勘解由小路兼仲(かげゆこうじかねなか)の日記『勘仲記』(『兼仲卿記』)によると、弘安七年(一二八四)朝廷において、小林上荘をめぐって資通と俊定か訴訟をおこなったことがみえ、また同日記の紙背文書には、訴訟に関する資通の手紙七通があることが、最近紹介された。手紙によると、訴訟は建治二年(一二七六)ごろからはじまり、そもそも為経が伝領したことに対しても注文をつけ、さらに為経の子経藤が不実の申請をして院宣をうけたとし、小林荘を伝領すべき道理は資通にあると主張したようである。
ところで資経の譲状によると、為経には前述のように小林上荘ほか二荘が与えられ、資通には安芸国能美荘内別府方と、為経および経俊に与えられた近江国湯次荘の年貢から一〇〇石が譲られ、さらに『永昌記』などの文書も資通に譲ることが明記されている。とすると紛争の種はなさそうであるが、現実に紛争が起こったのは、為経は早く康元元年(一二五六)に死去しており、小林上荘が経藤に譲られたものの、兄弟が不和という為経家の内紛のなかに、資通につげいられる隙(すき)が生じたのかもしれない。経藤は、小林上荘を俊定に譲ったのは、勧修寺家では重要な荘園であったからか、それとも勧修寺家家督の庇護(ひご)を求めたものであったろうか。
資通・俊定の訴訟は弘安七年十月三十日に結審し裁可の院宣がでたことがわかるが、その内容は伝わらない。しかし俊定の勝訴となったようである。だが紛争はなおもつづいたらしく、俊定の嫡男定資の、嘉暦三年(一三二八)の譲状には、小林上荘は、「当時牢籠(ろうろう)、申披(ひら)き知行すべし」とみえる。「牢籠」とは、農民らの年貢不法をいうのではなく、万里小路家からの横やりをいうのであろう。
伝領をめぐる紛争の直接の、また具体的な原因は明らかにならない。しかし大きな立場からいえば、農民の成長、名主の変質という荘園社会の移りゆきのなかで、荘園領主の支配がしだいにゆきづまり、荘園領主が没落をはじめて、内部分裂を起こしたものといってよい。荘園の伝領をめぐる争いは、勧修寺家だけの現象ではなく、多くの荘園領主の間でみられた。最大の荘園領主というべき皇室すらが、荘園伝領問題が大きな原因の一つとなって対立し、ついに大覚寺統・持明院統に分裂した。そうした荘園領主の分裂は、荘園支配のゆきづまりのあらわれであったといってよい。