得宗(北条氏家督)が支配していた多田荘にあっても、荘園支配のゆきづまりは、同じように進行していた。その様子は、文永九年(一二七二)ごろからはじまった多田院の修造の経過によくあらわれている。
多田院は創立いらいもとよりたびたびの修理がおこなわれてきたであろうが、鎌倉時代後期には、建物は極度にいたんでいた。檜皮葺(ひわだぶき)の本堂の屋根は雨がもり、柱もくさって、仏像に雨露がかかるほどであったといわれる。そこで得宗は文永九年、全面的な修造計画に着手した。勧進聖(かんじんひじり)に恒念(こうねん)を任命し、文永十年には全一三ヵ条にわたってくわしい計画案をしめした。それによると、多田荘の田畑の年貢の多くを修造費にあて、材木をきりだす人夫も荘内におりあてること、多田院御家人をのぞき、年貢を給与されている給人にも得分の半分を造営費にさしださせること、さらに得宗の奉行として、摂津守護代であり、和泉国久米田(いずみのくにくめだ)寺の造営奉行などとしても有名な安東蓮聖(あんとうれんしょう)を任命すること、などがきめられている。いわば多田荘の総力をあげて、修造にとりくもうというのであり、西谷地区も当然にこれに協力をすることになった。
ところが活動を開始した恒念は、たちまち困難に直面した。政所から多田院に納めるべき年貢は文永七年・八年とも清算がなされておらず、政所が未進をしていた。それだけでなく、田畑が災害をうけており、被害状況を検見(けみ)してほしい、という農民の強い要望がだされ、給人らの寄付も多くを望めない状況であった。得宗では、建治元年(一二七五)、鎌倉にあって律宗の布教また律宗教義の実践として社会事業や造寺に実績をつんでいた忍性(にんしょう)を多田院別当・勧進職に任命した。
忍性はじっさいに多田院を訪れたかどうかは確証を欠くが、忍性の努力によって弘安四年(一二八一)には本堂が完成した。しかしつづく三重塔の工事は容易に進捗(しんちょく)せず、完成は正和五年(一三一六)、南大門の完成は元徳二年(一三三〇)のことで、多田院の修造には前後じつに六〇年を要したのである。
そのように工事が長びいたのは、主として経済的な原因によると思われる。その背景には、折から蒙古(もうこ)襲来による経済界の混乱に際会した、という事情も考えなければならないが、その事情も含めて、多田荘の年貢が、予定どおり集まらなかったのである。正応六年(一二九三)には、忍性の奔走によって、さきにも述べたように摂津はじめ八ヵ国から棟別銭を徴収することが許可され、多田院修造は国家的な事業となった。永仁六年(一二九八)にはむこう三ヵ年多田荘の年貢のすべてが多田院修造費にあてられ、三年目の正安三年(一三〇一)にはさらに二年延長して年貢の半分を修造費にあてることとした。この間忍性は三重塔修造の完成をみることなく鎌倉極楽寺で示寂(じじゃく)したが、あとは極楽寺長老の順忍がひきついでいる。
もっとも、修造費にあてられる年貢はどれくらいであったのか、明細は明らかではなく、未進の実体も明らかではない。正和五年、百姓観蓮入道という者が、種々の謀計を構えて過分の訴訟をくりかえしたので、父子三人ながく寺領を追放された事件が起こっている。これが、百姓らの動きを伝える史料として、ほとんど唯一のものである。
しかし得宗のいわば全力をあげてのとりくみにもかかわらず、多田院の修造完成はおおはばにおくれた。正和五年におこなわれた三重塔の完成供養の予算は、当初五〇〇貫文と見積もられながら、結局一六〇貫文あまりに減額しなければならなかった。このことがよく象徴するように、得宗の権威をもってしても、多田荘の年貢徴収は、しだいに困難になりつつあった。それは、多田荘外の多くの荘園にも、もとより共通する現象であった。