没落する武士・新興の武士

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 それはともかく、多田院の本堂(金堂)や三重塔が完成したあとにおこなわれる落慶法会(らっけいほうえ)は、多田院御家人らか威儀を正して警固のために参列するハレの日であった。弘安四年三月の本堂完成を祝う供養は、忍性の師でもある西大寺長老叡尊(えいそん)が導師となっておこなわれ、正和五年十月の三重塔などの完成供養は、同じく西大寺長老浄覚宣諭(じょうかくせんゆ)が導師となっておこなわれた。正和五年の法会に関しては、御家人らの参列のようすの見取図が残されている。本堂供養のときは、御家人らは露地に板をしいただけで参列したが、正和五年のときには、会場の飾りともなるようにということで、本堂を三方からとりかこむように、屋根をつくり、左右とうしろの三方に引幕をした仮屋(かりや)をしつらえた。本堂左前方に建てられた法華堂の南側の仮屋には、両政所・塩川氏らが並んだが、そのなかに「佐曽利」の名がみえる。また南大門の西側仮屋には「山本」の名がみえる。さらに金堂の西側の仮屋には「平井平次郎助村」の名がみえる。名まえから判断して、市域内出身が明らかな御家人はこの三人である。御家人らは、仮屋のなかに着座したままで導師以下の行進をむかえるのは無礼なので、そのときは庭にでて蹲居(そんきょ)したという。
 ところで多田院御家人らには、一人当り一町歩の給田が与えられていたことは前に述べた。多田院の修造にさいし、一般には給田の得分も半分を提供させられたなかで、御家人に関してだけは免除された。その理由は、御家人らは「尫弱分限(おうじゃくぶんげん)」(か弱い財産)で、この給田のほかに生活の手段はなく、そのため「憐愍(れんびん)(あわれみ)の儀をもって」免除するのだという。このことばをそのままにはうけとれないにしても、生活的にも困窮する者もあらわれていたのであろう。 本堂上棟のさいと推定されるときに馬を引進めた史料が残されているが、佐曽利八郎らが一疋(いっぴき)宛であるのに対して、山本左近太郎は、高岡源二・佐藤三・井谷佐藤太入道と「寄合」で一疋をすすめている。その理由はじゅうぶんわからないが、各人均等に給田一町歩を与えられて再出発した多田院御家人の間に、ようやく貧富の格差がつきはじめていたのではないだろうか。
 同じ史料によれば、久々智兵衛尉は、「他所の仁たりといえども、志を関東の見参(けんざん)に入れんが為に、引進む」といわれている。久々智氏は本堂上棟の引馬をすすんで負担することで、関東、つまり得宗との関係を結びたい、というのである。御家人であることが大きな負担となる者もいた時期にあたって、久々智氏はさしずめ新興の武士といってよいであろう。伊丹市域を本拠とする伊丹氏も、そうした新興の武士の一人にかぞえてよい。伊丹氏は南北朝時代以後も北摂地方を代表する武士の一人であることは次章で述べるが、その活躍を確認できる最初の人物は、正和四年(一三一五)の文書に名前があらわれる伊丹親盛(いたみちかもり)である。親盛は、守護の代官沙弥道覚とともに、守護の使節となって兵庫関にでむき、関務に関する六波羅探題の命令を伝達し、実行させている。つまり摂津の有力御家人として活躍しているわけであるが、この時期から行動が顕著となることは、伊丹氏もまた鎌倉時代後期に成長した武士だったからであろう。