没落する武士と新興の武士と、その明暗をわけたものは、鎌倉時代中期にはじまる社会的変動にうまく対応できたかどうかにあった。そして文永十一年(一二七四)・弘安四年(一二八一)二度にわたる蒙古の襲来に対する御家人の負担増が、御家人たちの社会と経済の変動に対する対応をいっそう困難にした。
もっとも文永・弘安の役が、宝塚地方に具体的にどんな影響を及ぼしたかについては、いっさい明らかではない。市域内の寺社でも異国降伏の祈禱はおこなわれたのであろうが、その記録は残されていない。ちょうどそのころを京都の宮廷で過した一女性の日記風自伝である『とはずがたり』には、弘安四年蒙古襲来の直後に「かたはら病(や)み」という伝染病がはやった、ということしか、蒙古襲来は書かれていない。宝塚地方の庶民にとっても、蒙古襲来は直接にはなにほどの影響も与えなかったであろう。
だが、永仁五年(一二九七)御家人の困窮を救済する目的で幕府がだしたいわゆる「永仁の徳政令」は、北摂地方にも多少の影響を及ぼしたようである。箕面(みのお)の勝尾寺には、その条文を写した文書が残されている。その要旨は、借金に関する訴訟の受理を中止して事実上のふみ倒しを公認する、質入れ、売却した土地も、二〇ヵ年未満ならばもとの持主に無償で返却させる、ただし非御家人や一般庶民の場合をのぞく、というもので、以後このような内容の法令を「徳政令」と呼ぶようになった。
勝尾寺がこの法令を書写したのは、徳政令を機会に、勝尾寺に対する売却地や寄進地をとりかえそうとする動きがあり、徳政令に関心をもたざるを得なかったからであろう。また満願寺文書によると、買得や寄進によってあつめられた満願寺の燈油料田畑などに関して、徳政にことよせてもとの持主やその子孫らがとりかえそうとする動きがあり、満願寺寺僧の要請により、多田荘政所はそうした違乱を停止する下知をくだしている。その日付は永仁六年五月で、そのころはすでに徳政令は停止されていた。徳政令は経済界の混乱を招き、御家人救済の実効をかえって発揮できなかったからである。また徳政令は、御家人以外の質入・売却地のとりかえしには適用されないはずであった。しかし徳政令の投じた波紋は、加地子得分をあつめていた寺社に、すくなからぬ影響を及ぼしたのである。永仁六年六月にも、満願寺はあらためて、寄進田畑の本主の子孫と号して、一般人が寄進田畑の違乱をすることに対して、寄進状の趣旨にまかせ、かつは「御徳政の旨」にまかせて停止させるよう、関東に訴えようとしている。これらの満願寺領のなかには、平井村など近くの荘園の田畑も含まれていたであろう。