悪党の活躍

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 社寺に対する寄進状は、寄進者本人や両親・祖先の菩提のため、という趣旨の文面が多く、寄進田畑は子々孫々まで違乱しないと誓っている場合が多い。その文面に違反して寄進田畑をとりかえそうとするのは、寄進者の子孫たちが、それだけ困窮してきたからであったろう。
 その反対に新興の武士たちは、商品流通の高まりに乗じてこれを巧みにつかみ、加地子得分を集積して経済的基盤を拡大し、その財源をもとに所職を拡大してゆくことが多い。ところでそうした新興の武士が、前にあげた久々智氏のように、鎌倉時代後期にいたって新しく関東の幕府と関係を結ぼうとするのは、むしろ例外に属するというべきであった。伊丹氏の場合は、一族森本氏の系図が文治以来の系譜をのせているように、おそらく早くからの幕府御家人であったのではないか、と思われるが、非御家人で新しく成長した武士は、いまさら幕府と関係をとり結ぶよりも、むしろ実力で荘園や幕府の支配体制に抵抗しようとするようになった。彼らは同様な立場の武士と連携し、集団をくんで行動することが多く、そうした反体制運動を展開する集団を、当時一般に悪党とよんだ。
 

写真25 波豆廃寺より出土した瓦


 
 悪党の悪とはかならずしもワルモノの意味ではなく、中世ではツヨイという意味にも使われるが、悪党はなによりもまず荘園領主にとって悪であった。宝塚市域内では悪党活躍の例をみいだせないが、近くの例では、たとえば、伊丹親盛が兵庫関の統制のため出張した同じ正和四年の十一月、兵庫関が悪党に襲撃されるという事件が起こっている。比叡山の悪僧らを張本人として、淀川筋から賀島・尼崎・西宮・兵庫など一帯の住民からなる百余名が兵庫関を襲撃し、強奪をおこない、守護使とも合戦する悪行を働いたといわれる。また正応二年(一二八九)のこと、勝尾寺の法会に参列する京都清水坂寂静院院主尊観上人の一行に対し、粟生村(箕面市)の住人十郎兵衛・道祖若三郎・観心法師らが、下人をなぐり、所持物を奪いとり、はては上人を殺害しようとするなどの悪行狼藉を働いたといわれる。すこし遠い例では、永仁二年(一二九四)のこと、播磨国大部(おおべ)荘(小野市)に、鎧甲胄(ろうかっちゅう)に身を固めた数百人の悪党が乱入して狼藉のかぎりをつくし、荘園領主東大寺におさめるべき年貢米や銭貨をことごとく奪いとったという事件がある。張本は垂水繁昌(たるみはんじょう)というが、その一党のなかに河内楠(かわちくすのき)入道の名がみえ、これが楠木正成の父か、すくなくとも一族とみられている。楠木正成自身も、元徳三年(一三三一)、和泉国若松荘(堺市)に討入った悪党楠兵衛尉と同一人とみられている。
 悪党は、播磨国の情勢を記した『峯相記(みねあいき)』に(正安・乾元のころ(一二九九―一三〇三)から目に余り耳に満ちて聞かれるようになった」と記されているように、鎌倉時代後期の社会的変動が生みだしたものであった。ところでその行動は単純ではなく、メンバーも新興の武士から悪僧や不良商人にいたるまで種々の階層を含み、山賊・海賊・殺人・強盗など、一般庶民に対してもひとしく悪であった場合も多い。史料こそじゅうぶんではないないものの、市域内でも活動がなかったとはいえない。こうして悪党は種々の要素を含むが、しかし新しい武士たちの武力行動が基本で、またその行動に共通するのは、鎌倉幕府と荘園領主の権威に挑戦した、反逆的な性格である。幕府や六波羅探題は、守護や守護使を使って悪党を鎮圧しようとしたが、それは不可能であった。そしていわば体制への反逆児である悪党を鎮圧できないところに、源頼朝以来全国の軍事・警察権をにぎっていたはずの鎌倉幕府の末期症状があらわれていた。楠木正成の前身が悪党と推測されるように、悪党の武力は鎌倉幕府を倒し、さらに南北朝動乱を戦う有力な武力のひとつとなってゆくのである。