有馬への道

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 荘園の変質のあゆみを終えるにあたって、いままでに触れ得なかったことを二、三付加しておこう。まず、有馬の湯がこの時代にももとより有名で、湯治する者が多く、その記録のなかに、わずかではあるが市内のことがみえることである。『摂津国風土記』逸文や『日本書記』いらい有馬の温泉は有名で、都が大和にあった時代からたびたび行幸もあったことは、第一巻で述べた。平安時代末期大治三年(一一二八)に白河法皇が行幸されたのをはじめ、鎌倉時代には、正元元年(一二五九)後深草天皇が、弘安十年(一二八七)亀山上皇が、それぞれ行幸されている。
 もっともこれら行幸の場合は、その記録は簡略すぎて、どのようなコースで有馬に入ったのかについても明らかにならないが、公家の場合、たとえば歌人として有名な藤原定家は、その日記『明月記』のなかに、ややくわしい記録を残している。定家は建仁三年(一二〇三)、元久二年(一二〇五)、建暦二年(一二一二)と有馬に遊んだ。京都から船で淀川を下って神崎で一泊し、神崎から陸路で昆陽野・武庫山を経て有馬へ入るのがいつものコースであった。なかでも建暦二年の記録はくわしいが、つぎに述べるこの内容から推測すると、武庫川左岸を北上して小浜をぬけ、生瀬口のあたりで武庫川を渡って山にかかったものらしい。そしてこれがひとつのモデル・コースであったとすると、湯治の旅人は、しばしば市域内を通過したことがわかる。
 さて藤原定家は建暦二年正月二十一日辰の刻(午前八時)ごろ、春雨のけぶるなかを船で京都を出発し、黄昏(たそがれ)に神崎についた。終日雨であった。途中「下向有馬」と題して、
 
  沙堤雨裏行人少 纔伴漁舟問宿来
  月黒雲陰徐欲夜 猶望江水独徘徊
と漢詩をつくり、また、
  はるさめの あすさへふらは いかかせん
  そてほしわふる けふのふな人
 
と和歌を詠じた。
 

写真26 空からみた伊孑志・小林付近の武庫川


 
 雨は夜半にあがり、翌二十二日未明、風の寒いなかを、傾く月に乗るように出発し、昆陽池をすぎて武庫山に入った。この間にも三首の漢詩を詠んでいる。武庫川は大いに増水していて、なかなか渡ることができない。いつもの渡河地点より下流の方で渡れるところをさがし歩き、そこからふだん道でないところを荊(いばら)をきりひらき、けわしい岩を登る苦行を経て、申(さる)刻にようやく有馬にたどりつき、さっそく温泉にとびこんだことであった。その渡河地点は、帰路の場合を考えあわせると、小林より上流であったようである。二十三日から二十八日まで、有馬に滞在し、「終日」あるいは「毎日三、四度」と入浴した。賀茂幸平の妻、仁和寺(にんなじ)僧都なども来あわせ、仁和寺僧都とは湯屋の東屋(あずまや)で対談したこともあった。
 二十三日から二十七日までは晴であった。二十七日の夜中に大雨が降った。二十八日昼に入湯して止湯とし、翌二十九日帰ることになった。酉(とり)刻には雨もあがり、夜には迎えの伝馬・人夫も到着した。その夜またまた雨が降ったが、二十九日朝にはやんだので、定家は輿(こし)に乗って出発した。しかし武庫川はまたまた大洪水となっていた。前回渡ったところでも渡ることができず、勧修寺資経の所領小林荘に入って、その所の堂で食事をした。ついでその下手で、武庫川がふたつに分かれている浅瀬をみつけてようやく渡ることができた。そうして昆陽野にでて神崎につき、申刻乗船、綱手(つなで)をつけて急がせたが、吹田で日が暮れたので一泊し、翌二月一日、京都冷泉の自宅に帰着した。
 以上が建暦二年定家の旅の記のあらましである。いったん雨が降るとたちまち武庫川が増水し渡河に苦労したことが興味ぶかい。だが昆陽池までは、漢詩や和歌を詠んだ詩人定家も、市域の風光には、そんな感情を催さなかったらしい。散文的な形にでも、市域内の景色をほとんど記録してくれなかったことは惜しまれる。小林荘がだれの所領であるかという関心はあっても、そこに住む庶民の生活など、まったく関心はなかったのであろう。食事をした堂の名前も記していない。もっとも帰宅を急ぐ定家には、武庫川をどこで渡るかが重大事で小林や伊孑志の風景などは、目にもとまらなかったのであろうか。