鎌倉時代の清澄寺

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 京都―有馬は、こうして途中神崎などで一泊するあしかけ二日の旅であったが、その途中で病を得て不帰の客となる人もあった。権僧正法円かそうしたひとりである。寛喜三年(一二三一)九月、湯治のため有馬にむかった法円は、清澄寺で急逝(きゅうせい)した。享年五十四歳。法円は、治承四年(一一八〇)源頼政とともに平家打倒の火の手をあげ、諸国の源氏に令旨を発したかの以仁(もちひと)王の皇子である。以仁王の横死後、平宗盛によって四人の皇子は僧門に入れられたが、法円は平等院、四天王寺の別当を経て園城寺の別当となり、法輪院、また桜井僧正と号した。
 

写真27 釈迦三尊の図
良全筆(清澄寺所蔵)


 
 清澄寺の伝えでは、建物は源平合戦で焼失し、建久四年(一一九三)に再建、その直後に法円が入山したとされている。だが焼失・再建は寺伝以外には記録はないようである。また法円が湯治の途中の急逝であったことは、『明月記』寛喜三年九月十八日条に「桜井僧正、去朔(一日)ごろ湯治のため摂州山庄に向われ頓滅」と記されていて明瞭である。『明月記』はさらに法円の人滅後、その遺跡をめぐって尊性法親王と円満院良尊僧正が争論し喧嘩(けんか)に及んだ、という消息を伝えている。おそらく法円の死が予期しない急なできごとであったために、紛争となったのであろう。
 それはともかく清澄寺が当時北摂の天台宗系の寺院として著名であったことがこれで判明する。有馬への途は、神崎をまわる海ぞいの道とともに、西国街道をたどる道もとられ、法円が清澄寺に宿泊したものでもあったろうか。
 たびたびの火災にあったことによってであろう、清澄寺自体には鎌倉時代の古文書の類はいっさい残されていない。しかし第一巻でも述べたように、中世には現在地の東方、切畑長尾山の通称旧清(もときよし)の地に伽藍(がらん)があった。その遺跡の全貌が、昭和四十五、六年の発掘調査によって明らかにされた。調査によると、本堂は三間四面で庇(ひさし)をもち、板敷の床であったと推定され、また本堂前には左右にふたつの小堂があった。この本堂の様式と伽藍配置は、天台宗寺院の定型をしめし、ふたつの小堂は東を法華堂、西を常行堂と称したと思われる。多田院や加古川の鶴林寺などともに、兵庫県下の天台宗寺院の代表的遺構に数えられることが明らかとなった。しかもその遺跡地が長尾山の山腹にあり、叡山の頂上に延暦寺を営み、いわゆる山岳仏教として出発した天台宗が、やがて地上へ下り庶民のなかに入る、その過渡的形態をしめしている点で、注目を集めている。遺構とともに古瓦および土器類も多数発掘され、ほぼ一一世紀に成立していたことが確認された。くわしくは〈宝塚市文化財調査報告第5集〉によられたい。
 法円が訪れた清澄寺は、長尾山の中腹に、この華麗な姿を誇っていたはずである。現在の清澄寺本堂に本尊としてまつられる大日如来坐像は、いつから清澄寺にまつられていたかは確証はないが、鎌倉末、南北朝時代につくられた優品である。木造で坐高一一八・七センチメートル、作者はわからないが、口絵に掲げたように仏像彫刻が頂上を極めた鎌倉時代の作風をよく伝える仏像であり、早くから国の重要文化財に指定されてていて、有名である。また現在清澄寺には南北朝時代の画僧良全がえがいた、釈迦三尊を題材とする仏画も所蔵されており、良全の数少ない作品として注目され、昭和五十年新しく国の重要文化財に指定された。これまたいつから清澄寺に所蔵されていたかは確証はないが、大日如来坐像とならんで、鎌倉末、南北朝時代の仏教美術をまのあたりにすることができるわけである。