小林の平林寺は、寺伝によれば用明天皇の時代武庫の七寺の一として創建されたのにはじまり、平安時代前期に如一禅尼により中興されたとする。『摂津名所図会』には、「いにしへは伽藍巍々(ぎぎ)たり、天正年中荒木摂津守(村重)逆乱の時寇火(こうか)す」という。小林荘に、鎌倉時代初期にたしかに「一堂」が存したことは、前述のように藤原定家が昼食をとっていることで知れる。だが定家がとくに景観を記していないところをみれば、「浅々たる伽藍」とはいえないのであろう。
平林寺には、さいわいに石造の露盤が蔵され、田岡香逸によって鎌倉時代後期、文永・弘安ころの作品と考証されている。露盤とは、宝形造りなどの屋根の中央におき、雨露の浸入を防ぐ施設をいい、金属製や瓦製が多い。石造のものはめずらしいが、県下には他に生瀬の浄橋寺のものと中西廃寺(加古川市)のものが知られている。
平林寺の露盤は最近まで宝篋印塔(ほうきょういんとう)の台石に使用されていた。それを福沢邦夫によって発見され、田岡香逸によってくわしく調査のうえ確認されて、鎌倉時代の石造露盤の貴重な一例を追加することになった。現在の平林寺にも宝形造りの薬師堂があり、屋根には瓦製の露盤がおかれている。石造露盤は他所より運びこまれたものではなく、もともと平林寺に用いられ、おそらく改築にさいし、とりかえられて、そのまま放置されたものか、と推定されている。いずれにしても、鎌倉時代の平林寺について、この石造露盤は貴重な遺物を提供することになる。なおこの露盤に関しては、くわしくは後述する石造美術品とともに、田岡香逸によって『宝塚市の中世石造美術』と題して報告されており、また本市史別編にもとりあげられるはずである。
なお鎌倉時代には小林荘には温泉があり、京都からわざわざ入湯に訪れる人もあったことが、藤原光経の和歌の詞書によって判明する。しかし残念ながら他に関係史料はみいだせないようである。
貞応二年(一二二三)十月廿六日、津の国のをはやしといふ所にゆあみむとてまかりて侍りしほど、
なれあそびし遊女に十一月九日小屋野より別るとて
旅人のゆきゝの契り結ぶとも わするな我れを我れも忘れじ
(藤原光経集)