元弘二年(一三三二)三月、隠岐(おき)島へ配流される後醍醐天皇の一行は、西国街道を通って昆陽野(こやの)でしばし休息し、兵庫へむかっていった。
鎌倉幕府の政治は得宗(とくそう)の専制が強化されるなかで一般御家人の信望を失い、非御家人や悪党の活躍も日ましにさかんとなった。得宗の指令による多田院の再建が遅々として進まなかったように、得宗領多田荘にあっても、得宗や幕府の権威は失墜しつつあった。いっぽう荘園領主のなかにも、延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵の動きなど、しだいに反幕府の態度をしめしはじめるものがあった。このような情勢のなかで文保二年(一三一八)位をついだ後醍醐天皇は、鎌倉幕府を打倒する計画をすすめた。しかし正中元年(一三二四)についで元弘元年にも計画は六波羅探題(ろくはらたんだい)にもれ、天皇は笠置(かさぎ)山(京都府)に逃れたものの捕えられ、そして配流されたのである。
だが後醍醐天皇の配流は、あたかも討幕軍蜂起(ほうき)の合図となった。楠木正成(くすのきまさしげ)が南河内の赤坂(あかさか)城、ついで千早(ちはや)城で挙兵し、護良(もりよし)親王は諸国の社寺や武士に対し討幕の令旨を発して、吉野で挙兵した。この令旨をうけて、討幕の軍勢が諸国で起こりはじめた。
播磨(はりま)国佐用(さよ)荘の荘官であった赤松則村(あかまつのりむら)(円心(えんしん))も、そうして挙兵した一人である。則村は早くから後醍醐天皇と連絡があったとみられる。護良親王の令旨をうけると、元弘三年正月則村は佐用荘で挙兵し、ついで摩耶(まや)山(神戸市)に進出して城を構えた。閏(うるう)二月、六波羅の軍勢は摩耶山城を攻撃したが、則村はこれを大敗させた。
太山寺(たいさんじ)(神戸市)衆徒にも護良親王の令旨が下され、衆徒らは閏二月十五日兵庫島、同二十三日尼崎、同二十四日に坂部(さかべ)村(尼崎市)で戦っている。閏二月二十一日付で箕面(みのお)の滝安寺にも、護良親王から後醍醐天皇還幸(かんこう)の祈禱(きとう)にはげむよう令旨が下っている。その三日後に天皇は隠岐島の脱出に成功したのだが、このような令旨は市域内の寺にも下されたかもしれない。
閏二月二十八日、赤松則村を攻撃する六波羅の大軍はふたたび西下した。これをむかえうつため則村は摩耶山城をでて、久々智・坂部(尼崎市)・小屋野宿(伊丹市)などの川辺郡一帯に布陣した。六波羅軍は、瀬川宿(箕面市)に陣を構えた。三月十日、阿波(あわ)国守護小笠原の軍勢が尼崎の海から赤松勢を攻撃し、赤松勢は不意をつかれて混乱したが、態勢をたてなおすと、翌十一日早朝、瀬川宿に突入し、激戦ののち六波羅軍を破った。合戦の様子は『太平記(たいへいき)』にくわしくえがかれている。三〇〇〇の赤松勢が、決死の覚悟で二、三万騎の六波羅軍を破ったといわれる。則村はその夜すぐ六波羅軍を追撃し、京都近郊に布陣して六波羅をおびやかしつづけた。
このような情勢を前に、幕府は大軍を近畿におくり、閏二月一日には護良親王の吉野城を攻めおとし、楠木正成の千早城を囲んだが、千早城は大軍の包囲にたえ、奇策をもって幕府軍をさんざん悩ました。足利尊氏(たかうじ)も、後醍醐天皇追討のため関東から派遣された武将であった。しかし尊氏は隠岐にむかう途中丹波(たんば)国篠村(しのむら)八幡(亀岡市)で天皇方に転じた。そして伯耆(ほうき)から攻めのぼった千種忠顕(ちぐさただあき)らと六波羅探題を攻撃し、五月七日ついにこれを攻略した。六波羅探題北条仲時(なかとき)・時益(ときます)は脱出したが、時益はまもなく討死した。この時摂津守護でもあった仲時は、近江番場(おおみばんば)の宿で五月九日自刃した。『太平記』によれば、四三二人もの武士がいっしょに自害したといわれる。すっかり信望を失ったとはいえ、なお幕府に殉じる武士も多かったのである。関東では、五月二十一日、新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府はここに終わりをつげた。六波羅陥落の報をうけると、後醍醐天皇は上洛の途につき、五月三十日兵庫へ、六月二日には西宮についた。赤松則村・楠木正成らが、天皇を出むかえ、そして西宮についたときに新田義貞の使者が幕府滅亡の吉報をもたらした。こうして諸将を従えた天皇は六月四日に京都に還幸した。
元弘元年から三年の兵乱(元弘の変)で、宝塚市域は直接の兵火はうけなかった。しかし西国街道ぞいでは、こうして瀬川宿の合戦をはじめ、あわただしい兵馬の往来があった。宝塚地方にもその情報は刻々に伝わり、人々は兵乱の行方(ゆくえ)をかたずをのんで見守っていたことであろう。