建武二年八月、北条時行の反乱、いわゆる中先代(なかせんだい)の乱を鎮圧するため鎌倉に下った足利尊氏は、そのままとどまって諸国の兵を集め、同年十一月、新田義貞を除くことを後醍醐天皇に上奏して、公然と反乱に転じた。新田義貞はみずから尊氏討伐のため東下したが、箱根・竹ノ下(神奈川県)の一戦で敗れ、敗走する義貞軍を追って尊氏軍は翌建武三年正月京都に入った。
尊氏の旗下にはせ参じた武士のなかに、多田院御家人の高橋彦六茂宗の名がみえる。茂宗は十一月二十五日の矢作(やはぎ)川(愛知県)の合戦にかけつけ、足利上総(かずさ)五郎入道の手に属して戦い、十二月、遠江(とおとうみ)国府や手越(たごし)河原(静岡県)の合戦にも奮戦し、ついで上洛軍に加わって勢田(滋賀県)・宇治(京都府)で奮戦した。茂宗の出身地は不明だが、いずれ多田荘内か周辺であるはずで、建武新政に対する不満が、茂宗にこの行動をとらせたものであろう。
尊氏の上洛軍のあとを追うように陸奥国から北畠顕家が上洛して、たちまち尊氏を敗走させた。尊氏は丹波から播磨をまわって建武三年二月兵庫につき、再度京都をうかがった。二月五日付で尊氏は能勢(のせ)郡高山荘地頭職を勝尾寺に寄進しているが、再度上洛するために摂津地方の社寺や武士の協力をとりつけようとした証拠であろう。二月十日、尊氏は西宮浜にでて、追撃してきた楠木正成の軍と戦い、翌十一日、さらに進んで瀬川宿・豊島(てしま)河原で新田義貞の軍と合戦し、尊氏は敗れた。
元弘の変にさいし、瀬川宿で六波羅の大軍を破った赤松円心は、こんどは尊氏の軍に参加してふたたび瀬川宿で東をむいて戦った。元弘の変の活躍で円心に播磨守護が与えられたが、やがて召しあげられてしまった。円心は新政府の恩賞に不満で尊氏方に走ったといわれる。そして瀬川宿の敗戦の夜、円心は尊氏の今後について重要な献策をした、と尊氏側にたって書かれた歴史書である『梅松論(ばいしょうろん)』は書いている。すなわち、いったん西国へ兵をひいて、合戦に疲れた兵の士気を養う必要があること、朝敵となることを防ぐために、持明院統(じみょういんとう)光厳上皇の院宣をうける必要があること、播磨と摂津を赤松氏に、四国を細川氏に、九州は少弐(しょうに)・大友氏に賜われば、年内にも再度上洛が可能となるであろうこと、の三ヵ条を献策したという。この話の真相はともかく、歴史はそのように展開し、赤松氏は、のちに述べるように摂津の守護にもなる。尊氏はただちに豊島河原の陣をひきはらって九州に落ちのびた。途中備後(びんご)国柄(とも)の津(広島県)で光厳上皇の院宣をうけ、以後尊氏もまた皇室の命を奉じる官軍となった。瀬川の一戦はこうして歴史的な一戦であったといってよい。
九州に落ちのびた尊氏の軍は、態勢をたてなおして四月には早くも上洛の途についた。五月五日、鞆の津につき、ここから海陸に分かれて東上した。赤松円心は播磨にあって、迎撃のため山陽道にでむいた新田義貞の軍をくいとめ、義貞は五月十八日摂津へ敗走した。
五月二十五日、上洛する足利尊氏、その弟直義(ただよし)の軍と、これをむかえうつ新田義貞、楠木正成の軍の最大の合戦が湊川(みなとがわ)(神戸市)でおこなわれた。楠木正成はここで戦死し、新田義貞は敗走、五月二十九日には直義が、六月十四日には尊氏が入京した。
こうして三たび摂津西部で大合戦がおこなわれ、西国街道を大軍が通過したが、これらの合戦には、摂津地方の武士も積極的に参加していた。さきに高橋茂宗の名をあげたが、同じく多田院御家人の森本左衛門尉為時(さえもんのじょうためとき)は尊氏が九州に落ちのびている間、摂津にあって尊氏方として活躍した。為時は伊丹市を本拠とする武士の一人であったと思われる。尊氏の軍が近づいた五月二十四日、一族一五人をひきつれて有馬郡野鞍(ののくら)(三田市)に出撃し、湊川合戦のおこなわれた五月二十五日には、藍(あい)荘(三田市)で戦っている。ということは、後醍醐天皇方として積極的な武士も、北摂地方にいたことである。つまり北摂の武士も、天皇方と尊氏方両派に分かれて、小さな合戦をくりかえしていたのである。為時は、ついで尊氏にしたがって上洛し、六月五日比叡山無動寺攻めに参加したあと摂津にかえり七月四日呉庭(くれは)荘(池田市)、同六日尼崎、同八目安満縄手(あまなわて)(高槻市)と転戦した。高橋茂宗も、七月二十二日醍醐寺、八月二十二日山科四宮河原、同二十三日京都東山阿弥陀峯(あみだがみね)の合戦などに、尊氏方の一員として奮戦した。
上洛した尊氏方と、比叡山に難をさけた後醍醐天皇方との一進一退の合戦は、やがて大勢を決した。八月十五日、尊氏は持明院統光明天皇を践祚(せんそ)(天皇の位をつぐこと)させ、後醍醐天皇は十月十日下山した。そして十二月二十一日後醍醐天皇はひそかに京都を脱出して吉野にむかい、建武新政はここにあえなく崩壊したのである。
尊氏は「建武式目」を定めて鎌倉幕府を再興することを明らかにし、二年後の延元三年(一三三八)に征夷大将軍に任じられた。新しい武士の政権は、こうして京都において発足した。