さて南朝方では、北畠顕家が再度奥州から畿内に出撃したが延元三年(一三三八)五月和泉国石津(堺市)で戦死し、同年閏七月には新田義貞も越前藤島(福井市)で戦死して軍事力は大きな痛手をうけた。そして延元四年には後醍醐天皇も吉野で崩(ほう)じた。こうした南朝方の状況にもかかわらず、動乱が南北朝対立の形をとって展開したのは、幕府内部の結束が容易にかたまらず、有力武将の対立抗争があいつぎ、そのつど幕府方を裏ぎり南朝方に降伏する者がでて、南朝の勢力を再生産していったからである。
正平二年(一三四七)冬、南朝方では楠木正成の遺子正行(まさつら)が、南河内や紀伊で活躍し、幕府の軍勢をもうちやぶった。翌年正月、幕府は将軍尊氏の執事高師直(こうのもろなお)、その弟師泰(もろやす)らを正行攻撃にさしむけ、北河内の四条綴(四条綴市)で合戦がおこなわれて、正行は戦死した。師直は南朝軍を追撃して吉野の行宮(あんぐう)を焼きはらい、後醍醐天皇のあとをついだ後村上天皇は、さらに奥地の賀名生(あのう)(奈良県)に入らねばならなかった。師泰は南河内の南朝方の根拠地東条を攻撃し、石川に布陣した。この師泰の陣に、伊丹出身の森本為時も一族をひきいて出陣した。また満願寺は、寺領の違乱を、石川陣で師泰に訴えている。多田院御家人などの間に師泰の影響力が強かったのであろう。
正行を討死させ、吉野行宮を焼きはらったことは、師直兄弟の大きな功績であった。ところがひにくにもそのことが幕府上層部の対立を激化させることになった。対立は将軍足利尊氏・嫡子義詮(よしあきら)、高師直・師泰兄弟と、尊氏の弟で、幕府草創以来尊氏の片腕となって行政を担当してきた直義およびその養子直冬(ただふゆ)(尊氏の実子)との間で深まった。幕府の武将も二分し、まず直義が、ついで尊氏も南朝に降伏した。深刻な対立抗争は、貞和五年(一三四九)・観応元年(一三五〇)・二年・文和元年(一三五二)とつづいた。これを観応の擾乱(じょうらん)とよんでいる。その戦火は、宝塚市域のすぐ近くにも及んだ。
観応元年十月、直義が京都を去って大和から河内石川城に入り、各地の武士を集めたことから、幕府は完全に分裂した。これよりさき、九州で挙兵した直冬を討つため尊氏は高師直らと山陽道をすすんだが、近畿では直義派が優勢となったため軍をかえした。当時の摂津守護赤松範資は尊氏派であったが、摂津でも直義派が有力となった。観応二年正月、直義は京都に進撃した。京都を脱出した義詮は、山崎で尊氏と合流したが、結局敗北して尊氏・義詮は丹波から播磨に逃れた。
観応二年二月に入って、尊氏は勢力を挽回(ばんかい)して兵庫に進出し、十七日打出(うちで)浜(芦屋市)で直義方と合戦をおこなった。しかし師直・師泰の兄弟が負傷したために尊氏方の戦意が急におちた、といわれ、尊氏方は敗れた。二月二十日、尊氏の申出によって尊氏・直義の和睦がなり、師直兄弟は剃髪(ていはつ)した。二十六日、尊氏は兵庫を出発して上洛の途についた。ところが一行が武庫川をすぎたあたりで、師直・師泰は、直義方上杉能憲(よしのり)の兵に殺されてしまった。後世、伊丹市山田に「師直冢(つか)」がつくられている。
師直兄弟の殺害、という代償にもかかわらず、尊氏・直義兄弟の和睦は長くつづかなかった。観応二年八月、直義はふたたび京都から北陸に逃れ、さらに鎌倉に走った。直義は前年挙兵にさいし、南朝に降伏していた。こんどは尊氏の番である。尊氏は八月七日降伏を申し入れ、十月二十四日降伏は許可されて直義を追討せよという後村上天皇の綸旨をうけた。十一月三日尊氏はこれに請文をだすと、京都には義詮を残して、鎌倉にむけ出発した。尊氏の請文によって、北朝は廃され、年号も南朝の「正平」に統一されることになった。この事件を正平一統とよんでいる。
こうしたあわただしいさなかの観応二年九月、播磨守護赤松則祐の軍勢が、市域をかすめて活躍した。播磨国の国人後藤佐渡八郎左衛門尉基景(もとかげ)の軍忠状によれば、九月十二日、則祐の手に属して播磨伊川城(神戸市)で合戦し、ついで同二十六日須磨城、二十八日神呪寺(西宮市)と転戦し、さらに二十九日には、坂根・稲野で合戦をしたという。坂根は川西市栄根寺のあたり、稲野は伊丹市で、この一戦は市域をかすめたことになる。ただし則祐の軍と戦った相手はわからない。また則祐は、南北朝合体のすすめられていたこの段階では、その立場は微妙で、護良親王の若宮を奉じていた。したがってこの合戦の目的も、速断はできない。しかし同年十一月足利義詮は後藤基景に感状を与えていることからみれば、戦った相手は直義方の者であることは明らかである。
それはともかく、観応の擾乱は、こうして市域のごく近辺で二度にわたって戦火を交えて展開したのである。