このような争乱は、国人にも、農民にも、あるいは寺社にも、どの政治勢力を選択するか、去就を迷わせたことであろう。多田神社には、観応三年閏二月二十五日付で足利義詮から「天下静謐(てんかせいひつ)」を命じた文書が蔵されている。正平一統によって北朝が廃され、それとともに観応の年号も廃されたので、正式には「観応三年」は存在しない。にもかかわらず義詮がこの文書をだしているのはどういうわけであろうか。
理由はこうである。正平一統を実現した南朝方は、すすんで京都を奪回しようとし、楠木正行の弟正儀(まさのり)らの軍勢をさしむけ、後村上天皇も賀名生を出発した。正平七年閏二月二十日、正儀らは京都に突入し、その前日には後村上天皇も八幡(やわた)(京都府綴喜郡)まですすんだ。両朝の講和に安心していた義詮は抗することができず近江へ逃れ、そして南朝が講和を破ったとして兵を集めた。この文書は、すなわちその直後にだされたものであって、義詮は南朝打倒の意をこめて観応の年号を復活したのである。
ところで正平一統は、尊氏の政争のための方便によって実現したものであった。後村上天皇が賀名生を出発した同じ日に、尊氏は鎌倉で直義を毒殺し、南朝に降伏した目的を達してしまっていた。義詮も一ヵ月後に京都を奪回し、八幡を攻めた。五月、八幡の南朝陣は陥落し、後村上天皇はやっとの思いで賀名生に逃げかえった。八月、幕府は後光厳天皇を擁立して北朝を再建し、年号も文和と改めた。正平一統は、こうしてあっけなく終わったのである。
だが、かたときとはいえ正平一統を実施しなければならなかった政治情勢は、その後もつづいた。摂津地方にも、楠木正儀らの攻勢がたびたびくりかえされた。多田神社には、正平七年十月付の、南朝武将石塔頼房(せきどうよりふさ)の禁制も蔵されている。「当手軍勢ならびに一般人は、寺内に乱入して狼藉してはならない。違反者は罪科に処する」という通常の内容であるが、禁制はふつう軍事上の実権者に社寺の側から要請して交付される。このころ頼房が北摂の地方で実権者であったことがわかるわけだが、多田院は義詮の祈禱命令をうけた七ヵ月後に、南朝方の禁制を要請したのである。めまぐるしくかわる政情に、社寺があわただしく応接せねばならなかった一面をよくしめしている。
神崎・渡辺のあたりから、伊丹方面にまで、南朝方の進攻がたびたびおこなわれた。この時期に伊丹の国人森本基長が、幕府方として活躍した軍忠状が残されている。そうした状勢を背景に、つごう前後四回南朝方は京都を奪回する機会をもった。その間に、摂津の守護もたびたび交替した。一覧表にしてみると表4のとおりである。南朝の進攻をくいとめるべき摂津の地理的位置にあって、敗戦の責任をとらされる場合があったようであり、それに幕府中枢部の政争がからんだ場合もあった。そして尊氏自身もそうであったように、政争が、裏ぎり、つまり南朝降伏者を生み、南朝勢力を再生産してゆく。摂津守護のはげしい交替の姿は、動乱期の政情を端的にあらわしているといってよい。