こうした守護のなかで、市域にも直接関係をもってくるのは、佐々木道誉(どうよ)である。道誉は鎌倉時代の名家近江守護家に生まれ、青年時代には北条高時にかわいがられた。元弘の変以来足利尊氏に仕え幕府創立に参画し、近江はじめ諸国の守護に任じて、幕府きっての権臣にのしあがった。足利氏には外様である佐々木家の地位をそこまで高めたのは、いわゆる権謀術数を駆使して動乱の時代を生きぬくことによってであった。道誉はまた文学や芸能の愛好者、保護者としても有名で、当時の風俗である「ばさら」(服装などでぜいたくや権力を誇示する華麗な風俗をさすことば)の王者とも評される。南北朝時代のもっとも典型的な守護である。
延文五年(一三六〇)道誉は赤松光範に代わって摂津守護となった。延文四年からの幕府による南朝方攻撃失敗のあと、道誉が赤松氏に代わって摂津守護をねらい、まんまと成功したと『太平記』には伝えられている。
ところで守護道誉のもとでも、摂津地方での南朝方の優勢はつづいた。康安元年(一三六一)九月、神崎橋の一戦で道誉の孫佐々木秀詮(ひであき)が討死し、その年末には南朝方は四度目の京都奪回をはたしている。翌貞治元年(一三六二)八月にも、南朝方の楠木正儀らはふたたび神崎へ押しよせてきた。道誉は京都にあり、摂津には守護代の箕浦(みのうら)次郎左衛門尉定俊(さだとし)がいて、伊丹・瓦林・芥川氏ら国人の勢力を集めて対抗した。楠木勢は昆陽野・富松・瓦林のあたりにまで進出した。勝手の知った国人のなかにはいつのまにか退却する者もあらわれ、瓦林弾正左衛門は討死した。芥川を案内者にして、箕浦はようやく京都に逃げかえることができたという。
この敗戦ののち、道誉は守護を解任され、代わって赤松光範(みつのり)が再任されたが、この交替にも政争がからんだと「太平記」はしるしている。すなわち守護が幕府に対して負担することになっている課役を道誉は二年間未納したので、ときの執事斯波高経(しばたかつね)は、あつらえむきの道誉の罪科ができたと喜び、「道誉が近年給はりたる摂州の守護職を改め、同国の旧領多田庄を没収して、政所料所(まんどころりょうしょ)にぞ成したりける」という。そして道誉はこの解任を深くうらみ、諸将を集めて高経を将軍に讒言(ざんげん)したので、それが貞治五年高経没落の一因となった、としている。
摂津守護職は、こうして幕府上層部の政争の具とされたのだが、それはともかく、右の『太平記』の一文は、多田荘が道誉の旧領であったこと、道誉の摂津守護解任とともに没収されて政所(多田荘の政所ではなく、幕府の財政機関)の料所とされたことを伝えていて注目される。ただし多田神社文書などによれば、道誉はこの後とも多田荘の管理権をもちつづけている。さきに道誉が、宝塚市域と直接の関係をもつ、といったのはこの意味であるが、道誉と多田院・多田荘との関係は次項で改めて考えることにしよう。
中山寺に所蔵されている文書のなかに、貞治二年三月十六日付の沙弥某の下知状がある。それは花押から佐々木道誉の下知状と判断される文書で、昔から有名である。内容は清澄寺と中山寺山内との堺争論に関し道誉が裁決を与えたものであるが、残念ながら筆致・墨色とも当時のものとみるには難点があり、文章もまた整わないようである。しかしこの文書がよし後世の模作であったとしても、道誉と宝塚地方との深い関係が伝えられていた証拠となるものであろう。宝塚地方の人々にとっても、道誉は忘れがたい人物であったのである。