南北朝動乱の終わり

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 貞治六年二代将軍義詮が死んで、義満(よしみつ)が三代将軍となり執事には細川頼之(よりゆき)が任ぜられた。動乱の叙事詩である『太平記』がこの頼之の上洛をもって、「目出たかりし事どもなり」と四〇巻の筆をおいたように、統一への機運はようやく動きはじめた。頼之の補佐よろしきを得て、義満は幕府に反抗する守護をつぎつぎに制圧し、明徳二年(一三九一)には当時最大の守護山名氏を反乱に追いこんでこれに勝ち、その政治的立場を背景に翌明徳三年には南北両朝の合体に成功した。
 摂津守護は、応安七年(一三七四)赤松光範から、細川頼之の弟でその嗣子でもある頼元(よりもと)にかわった。統一の過程で、頼之・頼元は一時期失脚したこともあるが、永徳三年(一三八三)頼元は守護に再任され、明徳二年には頼元は管領となり、南北両朝の合体をむかえた。動乱の間にたびたび交替した摂津守護は以後幕府の管領家である細川氏が代々世襲して、すっかり安定した。こうした政治の安定は、たんに幕府上層部の政争が終わったことではなくて、守護による地方支配もいちおう安定し、社会的動乱にもひとまず安定期をむかえたことであった。その具体的な姿を、つぎに逐次述べてゆくことにしよう。