さて南北朝動乱の間はめまぐるしく交替した摂津守護も室町時代には細川氏によって代々世襲されていった。細川氏は足利氏の一族である(表8)。南北朝時代の初期に阿波・讃岐(さぬき)などの守護となって勢力を強め、やがて三代将軍義満のもとで細川頼之が執事となって以後幕府の重鎮となり、同じく足利一族の畠山・斯波氏と交互に管領(かんれい)となる、いわゆる三管領の一家となった。摂津守護に細川氏という大物を配したのは、摂津地方の位置の重要性や、南北朝動乱期の政治上の動きの複雑さによると思われるが、守護細川氏のもとで、摂津地方は政治的には比較的安定した時代をむかえることとなった。
ところで鎌倉時代の守護は、法制的には、いわゆる大犯(だいぼん)三ヵ条(謀叛(むほん)・殺害人の検断と大番催促)を職務内容とする、単なる行政官にすぎなかった。ところが南北朝動乱の間に、守護はいくつかの新しい権限を手に入れた。すなわち第一には、半済と称して、荘園の年貢の半分を兵粮料(ひょうりょうりょう)として守護が徴収する権限を得た。第二には、幕府の命令を執行するために、守護の使を寺社本所領の荘園内にも入れる権限を得た。これを使節遵行(じゅんぎょう)権という。第三には、従来の大犯三ヵ条のほかに、苅田狼藉(かりたろうぜき)、つまり収穫前の田を刈りとるなどの乱暴を停止する権限を付加された。第四には、守護役と称して、守護からも段銭や人夫役を、寺社本所領の荘園にも課しうるようになった。
このような権限を与えられた結果、守護の権力は、国人や荘園内の農民にも直接に及んでくることとなった。そして守護は、このような権限によって積極的に国人を家来として組織しようとし、国人たちもまた守護の家来となることが、みずからの領主としての発展のうえで有利となるようになった。南北朝動乱の間に、守護による国人の組織がすすみ、その国人を通して荘園を支配する体制が整えられて、守護がいわば生まれかわった。そうした守護の領国支配のあり方を、守護領国制とよぶ学者が多いが、守護領国制の前進によって南北朝の動乱は終わり、室町幕府による支配体制が安定したのである。
摂津地方の半済については、延文三年(一三五八)嶋下郡粟生村(箕面市)の領家職などが半済とされ、その年一年を限って武士に預けおいたのが最初であるが、ついで貞治二年(一三六三)には、賀茂村(川西市)の領家職半済分を池田弾正蔵人親政(だんじょうくろうどちかまさ)が、守護赤松光範からの預かりとして知行することを、幕府から承認されている。この池田氏の、鎌倉時代の動静については、あまり信用のおけない『池田系図』『紀氏系図』など以外にほとんど史料はなく、明確ではない。だが南北朝時代後期には明確に姿をあらわし、こうして守護と連携を保つことで、在地領主として発展する途がひらけた。池田氏はやがて細川氏の有力な家来となる。伊丹氏は鎌倉時代後期に摂津守護の使節となっていることは前章で述べたが、室町時代には池田氏と同じく細川氏の有力家臣となった。池田・伊丹氏は、以後宝塚市近辺を代表する国人となる。
ところで池田氏は呉庭荘に池田館を構え、さらに五月山麓に池田城を築いていた。伊丹氏もまた伊丹城を本拠とした。つまり池田氏も伊丹氏も、しっかりと本拠地を構えた領主であり、その領主的支配を確立し拡大するために、守護細川氏の権威にたよっていったのである。守護が在地領主である国人を組織したといっても、その主従関係は、こうしてはなはだ弱いものとなった。室町時代には、従者を、家臣・家来などという代わりに「被官」という場合が多く、本書でも以下守護の「家来」という代わりに「被官(ひかん)」とよぶこととするが、その実体はこのようなものであった。
そのような主従関係であっても、守護がともかく守護領国を形成しえたところに、守護による支配がひとまず安定した理由があったのである。