守護による支配のしくみ

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 さて守護細川氏は摂津のほか讃岐・土佐などの守護を兼ねていた時期があり、さらに幕府の要職についているので、摂津に在国したわけではない。室町幕府すなわち花の御所の近くに屋敷を構えており、摂津には守護代を派遣して支配にあたらせた。守護代はひとりとは限らず、管轄地域をわけ、薬師寺(やくしじ)・長塩(ながしお)・秋庭(あきば)氏など細川氏の直臣が任命された。摂津国を上郡・下郡・欠郡などに分けるのが通例であるが、上郡は島上・島下郡地方、下郡は豊島郡以西、欠郡は住吉郡方面である。ただし上・下郡の境界は固定的ではなかったようであり、欠郡の領域もじゅうぶん明確ではない。守護代の管轄地域については、なおじゅうぶんに解明されているとはいえない。しかし宝塚市域の含まれる川辺郡は、常に下郡に属していた。なお市域の西隣有馬郡は、室町時代中期まで赤松氏(播磨守護家または一族)が守護であったことが確認できる。したがって細川氏の支配権は、室町時代中期までは有馬郡には及ばない。
 これら守護代も、常時摂津にいたわけではない。彼らも細川氏の直臣として幕府の諸行事に参加することが多かった。守護代のもと、一郡、あるいは数郡を兼ねて郡使がおかれ、あるいは守護使が任命されて、守護の命令の伝達や執行にあたるのである。守護や守護代の駐留する役所は通常守護所という。摂津には上・下・欠郡三ヵ所に守護所(またはその機能をはたす役所)があったはずであるが、その場所は明確ではない。のち戦国時代になると上郡では芥河(高槻市)、下郡では富松城(尼崎市)や西宮が守護の支配の中心地となってくるが、室町時代もおそらくそうであったのであろう。
 なお室町時代にも地頭の名称はひきつづき存在した。しかし西成郡善源寺荘(大阪市都島区)東方の地頭職が足利尊氏によって多田院に寄進されているように、地頭職はまったくの収入権となり、地方支配といった観点からは完全に形骸化したといってよい。
 幕府の命令は、将軍じきじきの花押のある文書、または将軍の意を受けた管領の文書で守護に伝達され、守護から守護代へ、守護代から郡代へ、または守護使へ、郡代・守護使から国人・名主・百姓へと伝達される。室町幕府のもとで、この形式が成立した。ただし多田院などの社寺には、管領から直接伝達されることもあり、また問題によっては、幕府の奉行人から直接荘園の名主・百姓宛に文書がでることもある。
 守護代がだした文書の一例をあげると、多田神社文書のなかに、文書がある。文安六年(一四四九)四月十三日付で、守護代の長塩宗永が、「摂津国多田庄棟別の事、催促を止めらるべきの由、御奉書成られ候。心得らるべきもの也。仍(よつ)て状件の如し」と服部十郎左衛門入道に下命したものである。服部は現在の豊中市服部付近を本拠とする国人かと思われ、守護使か郡代かであろう。文書の大意は、多田荘の棟別銭に関して、催促をしないように、という守護の奉書がでたのでそのように心得て催促しないようにというものである。そのことは裏をかえしていえば、催促停止、あるいは免除の命令がでないかぎり、その徴収の任にあたる守護・守護代が使を荘園内に入れ、荘官や農民から段銭や棟別銭をきびしくとりたてるということである。守護の被官となった国人にしてみれば、棟別銭や段銭の賦課は守護の威をかりて農民に対しうる絶好の機会でもあったわけである。人夫役などの守護役賦課の場合も同様である。守護の権力はこうして荘園の農民個々人にまでせまってくることになった。