表5 室町時代多田荘の段銭・棟別銭の史料
年月 | 内容 |
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至徳3(1386)年6月 | 幕府、段銭・棟別銭等を多田院に寄付 |
嘉慶元(1387)・12 | 幕府、段銭を多田院に寄付 |
明徳2(1391)・10 | 幕府、多田院廊下造営のため棟別銭(10文)を課す |
応永3(1396)・10 | 京極高詮、多田川橋修理のため棟別銭(10文)を課す |
12(1405)・9 | 幕府、多田院修理要脚段銭を課す |
31(1424)・6 | 幕府、多田院の段銭、棟別銭の寄付を保障 |
31(1424)・9 | 管領、米谷荘段銭につき賀茂社神主代を召す |
永享11(1439)・2 | 幕府、多田荘の段銭・棟別銭の寄付を保障 |
文安元(1444)・3 | 幕府、天王寺造営惣国棟別銭を多田院に寄付 |
3(1446)・4 | 幕府、多田院の米谷荘段銭催促を停止 |
5(1448)・7 | 幕府、役夫工米を寄付 |
6(1449)・4 | 守護代、棟別銭催促を停止 |
宝徳元(1449)・12 | 幕府、多田院の段銭・棟別銭の寄付を保障 |
2(1450)・5 | 幕府、住吉社造替段米を多田院に寄付 |
享徳2(1453)・2 | 幕府、多田院の段銭等の寄付を保障 |
長禄3(1459)・11 | 多田荘、内宮役夫工米15貫文を納む、あて先不明 |
寛正4(1463)・11 | 守護代、要脚段銭の催促を停止 |
6(1465)・8 | 幕府、即位要脚段銭を、多田院に寄付 |
文正元(1466)・12 | 幕府、大嘗会段銭を多田院に寄付 |
文明11(1479)・3 | 幕府、棟別銭の催促を停止 |
12(1480)・12 | 幕府、段銭・役夫工米・棟別銭の寄附を保障 |
15(1483)・8 | 幕府、東山山荘造作料段銭の催促を停止 |
18(14S6)・7 | 幕府、大将拝賀要脚段銭を多田院に寄付 |
[備考]1.出典はすべて「多田神社文書」である
2.同一事件について数通の文書がある場合もある
ところで足利氏は、さきにも述べたように源氏の祖廟として代々多田院に深い帰依をよせ、その造営にも努力しようとしたが、その費用はすべて段銭・棟別銭でまかなわれた。たとえば明徳二年(一三九一)には多田院廊下造営のため多田荘に棟別一〇文の棟別銭を課し、応永三年(一三九六)には、これは多田院管領の京極氏の命令として、門前の橋修理のために棟別銭を課している。応永二十七年八月に多田院は火災にあったが、その造営費として、「多田院造営要脚段銭」を永享四年(一四三二)に越中国、嘉吉三年(一四四三)に若狭(わかさ)国などに課している。
幕府の段銭・棟別銭賦課は、守護の権力を利用して、国単位でおこなわれる例が多い。一国単位で、守護領・本所領荘園など領有関係をとわず平均に課せられるので、ふつう一国平均段銭などという。多田荘は、鎌倉時代以来多田院と特別な関係をもつが、幕府は一国平均段銭・棟別銭を多田荘には免除し、そのつどその段銭・棟別銭を多田院の修造費として寄附するのが南北朝時代以来の慣例となった。つまり多田院造営の目的以外で摂津一国に平均に段銭・棟別銭がかけられたときは、多田荘分に関しては守護所に納入することを免除され、代わって多田院がその分を徴収し、修造費にあてるわけである。これが多田荘に対する段銭・棟別銭免除の意味である。したがって農民にとっては段銭・棟別銭を負担しなければならないことには変わりはないが、それに便乗した守護のきびしい催促はまぬがれることになる。
そうした免除地には、多田荘のほか、米谷・山本荘などが含まれる。米谷荘は賀茂別雷神社、山本荘は松尾大社が本所で、年貢・公事は本所に納入されたが、段銭・棟別銭は「加納」と称して多田院が徴収できる権限をもっていた。それがどのような根拠にもとづくのかは明らかではないが、鎌倉時代前期に多田荘に存在した検非違所の権限などを考えあわせると、多田満仲以来の伝統によるものかもしれない。
それはともかく、こうして多田荘および加納荘々には一国平均の段銭・棟別銭賦課は「免除」されるのが慣例となったが、そのたびに「免除」と守護などの催促を停止した幕府の命令がだされることも慣例となった。いま多田神社文書から関係史料を要約してみると、表5のとおりとなる。関係文書が残されていない賦課も多数あったはずで、幕府がいかにたびたび段銭・棟別銭の徴収をおこなったかを推測できる。
一国平均の課役が免除されたとなると、守護の使が入れないこととなるが、一定の区域に守護を入れない特権を「守護不入」の権利という。多田院に寄進されていたらしい小戸(おおべ)荘(川西市)地頭職が、幕府から正式に「守護不入」を承認されている。多田荘や米谷・山本荘の加納地が守護不入であった確証はないが、段銭・棟別銭が多田院にゆだねられている以上、同様に守護不入であったとみてよいであろう。
だが守護不入は幕府の保障にもかかわらずやぶられがちであった。とくに米谷荘は、段銭・棟別銭の多田院加納をめぐって問題があったらしく、応永三十一年(一四二四)には本所賀茂別雷神社の神主代が管領畠山満家のもとへ召しだされている。また文安三年(一四四六)には、守護細川氏から多田院に対し米谷荘への段銭催促をいったん停止し、子細あれば上洛して説明するように、と命じている。段銭賦課に困惑する米谷荘本所と、守護使として勢力拡大をはかろうとする国人層とが、多田院に対してはともに利害が一致し、同じような行動にでたのかもしれない。
一方多田荘内にも、多田院による段銭・棟別銭徴収に反対する動きがあった。応永三十一年の幕府の命令によれば、「荘内の御家人らが、武威を募って段銭などの徴収に反対した」といわれる。そのくわしい事情はわからないが、課税反対の農民の動きが基本にあり、同時に、段銭などの催促を通じて農民支配を強化してゆこうとする国人層もまた、多田院による徴収に反対したのではなかったろうか。
それはともかく幕府による多田荘および加納諸荘の段銭などの免除・寄進は、こうして国人たちによって破られることが多く、そこにたびたび催促停止などの命令がだされる理由のひとつがあった。そして守護による直接の催促が免除されている荘園でもこの状態であったとすれば、小林荘などその特典をもたない荘園では、きびしい守護勢力の催促をもろに受けなければならなかった。つぎの戦国時代に属する史料ではあるが、山本荘の東側久代荘で、段銭などの徴収に関する一連の史料の写が残されている。段銭や棟別銭は、守護奉行人などの連名の配符(徴収命令)で通達されるが、配符には「もし難渋をすれば、譴責(けんせき)の使をもってきびしく催促するであろう」と書かれている。納付期限は、配符が配られてから一週間程度というきびしさで、しかも段銭のほか、配符の費用をはじめとして奉行・奏者・郡使などへの礼、一献銭などの名目でも出銭せねばならなかった。催促をうけると催促銭が入用であり、なにか非礼でもあると、詑言(わびごと)の礼銭もとられた。段銭の名目は、即位要脚料・公方様御成要脚料などとみえるが、いったん配符が回されると、それにからんで種々の形で守護勢力から搾取(さくしゅ)されるのである。
こうした段銭徴収のあり方は、室町時代にあっても多かれ少なかれおこなわれたことであったろう。守護やその被官の支配は、こうして本所領の荘園内部にも、重くのしかかってきたのである。