三代将軍義満の時代に頂上をきわめた室町幕府の政治はやがて守護領国制の矛盾がしだいにあらわれはじめ、動揺してゆくこととなった。そのきっかけとなったのは嘉吉元年(一四四一)の嘉吉の乱である。六代将軍義教は、有力守護をおさえつけて将軍専制をうちたてようとしたが、その政策が守護の反発をまねき、ついに播磨守護の赤松満祐(みつすけ)に殺されてしまった。満祐がこの挙にでたのは、赤松家の内紛に乗じて将軍から弾圧されそうになったので、それに先制したのだといわれる。満祐は領国播磨に逃げかえったが、たちまち細川氏の一族成之・山名持豊(宗全)らに攻撃されて自害した。西国街道を、また兵馬はあわただしく往還した。
嘉吉の乱のあと、有力守護の連合政権である幕府の体制の矛盾や国人を強力に組織しえていない守護領国制の矛盾が急速に拡大した。それはまず、斯波・畠山など有力守護家の家督をめぐる内紛となってあらわれた。畠山家では政長(まさなが)・義就(よしなり)が対立し抗争した。守護家の家督争いとは、被官層の分裂を意味する。つまり守護の権力の傘(かさ)のもとでそれぞれの本拠地で領主として成長した被官たちは、主家の家督に、自分たちにつごうのよい者を推しはじめたことなのである。さらに社会の基本の流れとしては、農民たちは、くわしくは次項で述べるように、大規模な土一揆をたたかうようになり、守護や幕府権力と直接対決するようになった。
身分や地位の下の者が成長発展して上位の者にうちかつことを、当時一般に「下剋上(げこくじょう)」といった。将軍が殺されたことはその代表的なものだが、守護家の分裂もそのあらわれである。もっとも下剋上とは、上位の者が下位の者たちに地位・身分をおびやかされることに対する恐怖のことばであって、下位の者の闘争スローガンではないが、室町時代中期にはじまる政治と社会の風潮をよくいいあらわしたことばである。
幕府内部では、三管領家のうち斯波・畠山家が内紛によって弱体化したなかで、細川氏のみ表面は安泰であった。嘉吉二年に家督をついだ細川勝元が、幕府内部でしだいに隠然たる力をもち、嘉吉の乱で活躍した実力者山名宗全と対抗しはじめた。そうなると分裂した守護家は、それぞれ細川・山名氏をたよった。家督をめぐる争いは、ついに将軍家にも及んだ。八代将軍義政にははじめ男の子がなく弟の義視(よしみ)を継嗣ときめていたが、やがて夫人日野富子に義尚(よしひさ)が生まれ、山名宗全にたよった。守護と同じように、幕府内部の分裂が、将軍家の継嗣争いへと展開していったのである。そしていきつくところ応仁元年(一四六七)から前後一一年にわたる応仁の大乱となった。
応仁元年五月、細川勝元・山名宗全はともに配下の武士を京都に集めた。『応仁記』によれば、細川方一六万人余、山名方は一一万人余の軍勢をあつめたといわれ、細川方を東軍、山名方を西軍とよんだ。
勝元の召集によって摂津国人の池田氏も、馬上一二騎、野武士一〇〇〇人ばかりをひきつれて上洛したことが、近衛政家の日記『後法興院記』にみえる。馬上というのは、池田氏の一族やおもだった家来など、正規の甲胄を着て馬にまたがった武士をいう。これに対して野武士とはいわゆる足軽(あしがる)のことである。野武士の動きは南北朝動乱の時からあらわれるが、応仁の乱から足軽が合戦の中心をしめるようになった。しかもこの時期の足軽は、いわば傭兵であり、軍隊として強力に組織されたものではなかった。北摂の国人も一〇〇〇人規模の足軽をあつめ得たわけだが、市域の農民でも、金で傭われて池田氏や伊丹氏に属する者がでたかもしれない。
応仁元年七月、周防国の守護大内政弘(まさひろ)が、西軍に味方するため東上し、兵庫についた。大内軍の上洛が東西の兵力均衡に大きな影響を与えるため、細川勝元は大内軍を摂津で防ごうとして、摂津守護代秋庭元明(もとあき)、播磨の赤松政則(まさのり)らとともに摂津国人をさしむけた。細川方は所々に要害を構えて防ごうとした。八月四日越水(西宮市越水)で合戦があり、七日には大内軍は尼崎を一宇も残さず焼きはらったといわれる。
『応仁記』の表現によれば、大内軍はこうして、洪水が小さな堤をきるように細川方の防備陣をおし破って、上洛した。ところでそれは、摂津国人らの裏切りによるものだと『応仁別記』はしている。この合戦には摂津国人では池田・伊丹・芥川氏らが参加したが、彼らは平素守護代秋庭にうらみがあったためにこれを裏切った、というのである。
だが池田氏は、このあと守護代薬師寺元一の説得によってふたたび細川方に寝返った。文明元年(一四六九)七月、そのため池田城は大内軍の包囲をうけた。十月、兵庫で大内軍が破れることがあって、ようやく池田城の包囲はとけた。
細川勝元の被官であった摂津国人たちのこのような動きは、応仁の乱が、国人たちにどのようにむかえられたかをよくしめしている。国人たちは遠く京都の合戦に参加もしたし、摂津の地元でも戦った。だが彼らは、勝元の召集に盲従したり、主家の一大事に奉公しようとしたのではなかった。彼らは応仁の乱をきっかけとして、守護の忠実な被官の立場から彼ら自身の在地領主としての飛躍の途を求めたのである。表面は平穏にみえた細川氏の領国支配にも、下剋上のきざしがこうしてしだいにはっきりしてきた、といってよい。
応仁の大乱は、足軽の徴発や過重な人夫役、段銭など守護役の賦課となって市域の農民生活にも大きな影響を与えたはずであるが、その史料はいっさい残されていない。だが、下剋上の政治と社会の流れは、その基底において、農民たちの下剋上のたたかいに動かされたものであった。
応仁の乱をもって室町幕府の実質的な支配は終わるが、この時代の農民のたたかいは、その政治の流れを動かす直接の力にもなっていたのである。つぎに項を改めて農村の内部に入ってみることにしよう。