南北朝内乱期に、荘園や郷・村を単位として、個々の荘園領主や国人たちにむけられていた農民の闘争は、室町時代に入るとさらに発展した。玉瀬・大原野村が敢行したような村単独の闘争から、村々が広く横に連携し、共同していっせいに立ちあがるようになった。土一揆(どいっき)(つちいっき)とよばれる大規模な闘争である。広い地域の農民の闘争スローガンとして、徳政(とくせい)要求をかかげる場合が多い。徳政とは、前章で述べたように、借金や土地の質入れを無効にし、債務者を救済する目的で発布されるものだが、いままでは、武士たちの救済を目的として、上から与えられるものであった。室町時代に入ると、農民みずから徳政令発布を目標に、土一揆をたたかうようになった。徳政を要求する土一揆は、徳政一揆ともよばれる。
正長元年(一四二八)は、土一揆史上記念すべき年である。この年秋近江に起こった大土一揆は、山城の醍醐・山科につたわり、ついで京都に攻めいって徳政を要求し、土倉(どそう)(つちくら)(高利貸業者)におしいって実力で債務を破棄した。奈良興福寺の大乗院門跡尋尊(じんそん)は、「およそ亡国の基これにすぐべからず。日本開闢(かいびゃく)以来土民蜂起これ初めなり」と恐怖をもって記録しているように、これが日本最初の大土一揆である。
一揆のあらしは、大和・紀伊・河内・和泉・播磨などへ波及し、ある本に「惣じて日本国中残りなく御徳政」といわれるほどの情勢となった。播磨国では、翌年正月、農民が蜂起して守護の軍勢を攻撃し、「侍をして国中にあらしむべからず」と宣言するほどであった。
正長元年の一揆は幕府に徳政令をださせることはできなかったが、嘉吉元年(一四四一)将軍義教が殺された後に起こった大土一揆は、整然と組織だった行動をとり、ついに幕府に徳政令をださせることに成功した。幕府は、土倉からの献金でその財政のかなりの部分をまかなっていて、徳政令をだすことは、みずから自分の首をしめることであったのだが、土一揆の要求におされて徳政令をださざるを得なかった。それは、幕府みずからその弱体ぶりを暴露したことである。農民たちが一揆に結集することで、荘園や守護領国の社会構造を変革していったばかりでなく、一揆の力で幕府権力を弱めていった。下剋上の社会風潮は、土一揆のエネルギーに支えられて起こってきたのである。わが国の一五世紀は、まさに一揆の世紀、下剋上の世紀であったといえよう。