多田荘の徳政騒動

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 以上、一般的な情勢について概観してみたのだが、このような情勢は宝塚方面の村々にも影響を与えないではおかなかったのである。正長の大土一揆が京都をおそった翌永享元年(一四二九)十二月八日付で、幕府から多田院管領の京極氏にだされた命令は、つぎのような注目すべき内容をもっている。
 
  摂津国多田院雑掌申す、当寺領内百姓浄法已下の輩の事、寺家進止の郷民たるのところ、徳政と号し、狼藉を致すと云々。所詮これを糺明有らんがため、不日彼らを召し進めらるべし。
 
 雑掌とは、訴訟などのさいの代理人のことである。多田院から雑掌を通じて、「寺領内の百姓浄法らは、寺が支配する郷民であるが、徳政と称して狼藉に及んだので取締ってほしい」と幕府に訴えでた。そこで幕府は、取調べのため即刻浄法らの身柄を逮捕するようにと、命じたのである。浄法らは、多田院が支配する郷民とあるから、多田荘のうち多田院に寄進されていた山原村(川西市)か猪淵村(猪名川町)の住民かと思われる。彼らは京都で起こった徳政一揆と同じように徳政を要求して、大衆運動をおこなったのであろう。もっとも他に関係史料はみいだせないので、くわしい内容は不明であるが、徳政一揆の情報に敏感になっていた多田院を震撼(しんかん)させる行動であったことはまちがいない。浄法らの行動を「狼藉」とみるのは、もとより下剋上におびえる支配者の立場からである。浄法らは、おそらく京都はじめ各地の徳政一揆の情報に刺激をうけ、徳政を求める村民の要求と結びついた行動をしたのであろう。
 川辺郡一帯で、徳政をめざす闘争があった史料は、実のところこの一通以外にはない。しかもこの浄法らの騒動自体も、はたして農民闘争といえるかどうか、確証はない。というのも、もっとも昂揚した時期の土一揆では、村を単位に文字どおり村民が一致団結してたたかい、張本人の氏名など判明しないのがふつうだからである。浄法らは、村の代表者であるよりは、徳政を口実に一騒動を起こそうとした小土豪である可能性も強い。しかし多田院がその動きのなかに徳政一揆の危機を感じとったことはたしかであり、いってみれば、一触即発の情勢が展開していたとみてよいであろう。そのような情勢なしに、この史料はあらわれることはない。ただ一通の史料ではあっても、千斤の重みをもっている。南北朝内乱期に、村をあげての逃散を敢行した奥川辺の村々であったからこそ、畿内地方の一般情勢と同じように、農民闘争は着実に前進したといえよう。
 そのことは、他の断片史料からもある程度推測できる。応永三十一年(一四二四)のころ、多田院の段銭・棟別銭の徴収に対し、多田院御家人らが武威を募って反対したことは前に述べたが、その他にも、あるいは寺社領と称し、あるいは免除地と号して納めない者があった。多田荘や米谷・山本荘などには、なにかと口実を設けて多田院の催促には応じようとしない者がいたのである。文明十八年(一四八六)と永正三年(一五〇六)には、つぎに述べるように多田院の段銭徴収のくわしい史料が残されているが、「未進」と書かれている村が多く、また未進でないまでも、課税面積に比べて納入された段銭がいちじるしく少ない村が多い。たとえば文明十八年には、一段別七〇文宛の課税で、西長谷新田方は課税面積一町一段余で納入八〇〇文、大原野村新田方は同五町余に対し納入三貫四六三文とほぼ完納している。それに対し、佐曽利郷は課税面積一四町余に対して納入七貫文で約七〇%、波豆村新田方二町余は納入金額の記載がなく、まったく納入されなかったとみられる。米谷・山本荘など加納の村々も納入額はいちじるしく少ない(表6)。段銭の納入がこのように少ない事情にはもとより種々理由があるにしても、農民闘争の高まりを根本の理由にあげてまちがいはない。
 ではこうした時代の村の構造は、どのようになっていたのであろうか。