多田荘と加納の村々

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 ここで当時の村の外観を知るのにたいせつな史料である、文明十八年および永正三年の多田院による段銭徴収の明細簿を簡単に分析しておこう。両年ともつぎのような形式で、村別に段銭の課税面積を書きあげ、つぎに徴収した段銭の金額を書きだしている。(各村々を書きあげた最後に、段銭徴収に要した費用の計算書があり、守護勢力と荘園の関係を知るうえに興味ぶかい史料であるが、その分析は次節にゆずる)比較対照できるように、両年を上下二段にしめしてみよう。
 
   (文明十八年)
  本田方
 一佐曽利郷廿七町八十歩内
      現作十四丁段小
      納分七貫文
  新田方分
 一大原野村六町八十歩内 不作一町
     納分三貫四百六十三文
 一米谷村一町三段六十歩内 一町
    納分七百文
 諸本所分
一大原野村地頭分十一町五段九十歩
      又佃五段
      七段五十歩 新田成
      納分六貫五百文
 一米谷庄五十三町四段七十五歩
      納分廿一貫文
 
   (永正三年)
  本田方
 一佐曽利村廿七丁八十歩内
      現地十四丁一反小
      納分七貫六百十文 未進
  新田方分
 一大原野村六丁八十歩内 一丁不歟。 一丁二反大五十歩新不
      納分弐貫八百三文 新田分
 一米谷村一丁三反六十歩内 一丁現作 新田分
      納分七百七十一文
  諸本所分
 一大原野村地頭分十一丁五反九十歩内
           又佃五反在之。是ハ免除。
 
  一丁五反四十歩新不 六反延徳三季ニ川成
      納分六貫八百六十二文
 一米谷庄五十三町四反七十五歩
  一丁九反廿五歩城殿・源二郎殿・新右衛門殿佗事、永正 元子分当年始而家古掃部方行給付、無沙汰侯。
 
      納分十九貫六百卅四文
 
 各村の面積は、だいたい二種書かれているが、後の方に「現作」とあり、大原野村のところで「不」(不作)や「川成」(水害被災地)の注記があるように、基本台帳の面積と、そこから不作・川成などを差引いた現作(じっさいに耕作されている田)とが書かれていることがわかる。ところが、文明十八年と永正三年で二三年のへだたりがあるにもかかわらず、佐曽利村の例にみるように現作を含めて両年の面積が一致しているのが多い。前節では、応安元年(一三六八)と永和元年(一三七五)に多田院が徴収した棟別銭の史料をとりあげたが、七年をへだてた両史料で各村の家数はかなりちがっていた。それに比べると、段銭の場合は、両年の面積が一致する場合が多いことが大きな特色をなしている。それは、現作とはいっても、じっさいの耕地の状況をあらわすものでないこと、つまり厳密な調査によって算出された面積ではなく、いつかの時期の調査結果がそのまま踏襲されているらしいことをしめしていると考えてよい。ということは、荘園支配がそれほどまでに硬直化してしまっていることである。事実、例示したうち大原野村や米谷荘は近い時期の変動を記載しているが、これは史料全体のなかではむしろ例外に属し、台帳面積・現作面積ともぴったり一致している場合が圧倒的に多い。したがってこの面積が、棟別銭の場合の各村々の家数のように当時の田畠のすべて、ないし近似する面積である、などということはできない。たとえば波豆村は家数は永和元年には一四四棟を数えるが、段銭の課税面積は一二町余にすぎない。しかしこれだけが波豆村の人々の生活の基礎となる田地であったとはいえないのである。各村の田畠のじっさいの面積は、この史料からは不明というほかなく、そのような、いってみれば仮空に近い数字で荘園の支配がおこなわれているところに、室町時代後期の荘園支配の実体が、如実にしめされているといってよい。段銭および棟別銭の史料のうち市域に関係する村々や荘園の数値は一覧表にまとめた(表6)。山本荘は、百姓名と田所名・得久名・国安名の特別な名に分かれている。この区別は第一巻で述べたようにもともと名の性格のちがいをあらわしていたが、この段階では単なる行政の単位にすぎなくなっており、永正三年には田所名は池田遠江が、得久名は池田大西が、また国安名は三屋因幡がそれぞれ知行していた。
 

表6 多田院の段銭・棟別銭の史料にあらわれた市内の村々

区別村(荘)名面積段銭納付額棟別銭負担棟数
文明18年永正3年応安1年永和1年
本田方佐曽利村町段歩貫文貫文
27.0.0807.0007.610207149
(14,1.120)(未進)
新田方玉瀬村.8.
(7.220)
.347.447(逃散)31
西長谷村2.4.4.190
(1.1.140)
.800.510
(未進)
6465
波豆村2.0.280
(―)
(1.6.000)
1.236142144
大原野村6.0.080
(5.0.080)
(3.7.150)
3.4632.803(逃散)132
米谷村1.3.060
(1.0.000)
.700.771
山本村1.4.320
(―)
諸本所分西長谷村6.7.030
(4.3.025)
3.1113.250
波豆地頭分1.0.000
(―)
.772
〃本所分9.0.010
(―)
2.0004.200
大原野地頭分11.5.090
(10.3.040)
(8.9.050)
6.5006.862
米谷荘53.4.75
(―)
21.00019.634166240
山本荘86121
百姓名44.2.300
(30.5.0)
(34.7.0)
10.0009.619
田所名9.5.300
(―)
2.3001.000
得久名12.5.280
(―)
2.5001.500
国安名7.6.240
(―)
1.000
切畑村4631
平井村61

[備考]1.面積のうち、上段は台帳面積、()内は現作の面積、()が2段に分かれる村は上段は文明18年、下段は永正3年()が1段の村は両年とも同一面積である 
    2.―は記載なし


 
  ところで以上のことは、逆にいえば、これらの史料は荘園支配の伝統的支配のあり方を推測するうえに役立つ、ということになる。基本台帳・現作面積とも、史料に記載の面積を含められた年代はわからないが、多田荘の支配のうえで伝統的な数値なのである。史料は各村々を本田方、新田方と諸本所分に三大別している。本田方・新田方ともに多田荘に属する。本田方は当初に多田荘として開発された所、新田方はその後に開発された所であろう。もっとも鎌倉時代中期にすでに新田方の名称がみられるので、新田方は古くは鎌倉時代中期から開発がすすめられたが、多田荘の政所が本田方・新田方の二本立で構成されたことから、その区別が長く維持されたものとみられる。
 史料全体でみると、多田荘のうちとみられる村は約五九村ある。約五九村というのは、たとえば北田原村・南田原村(猪名川町)のように東西、南北に分けて記載されている村を一村とみるか二村とみるかによって村数がちかってくるからである。五九村は、それぞれ別村として数えた村である。そのうち、本田方は一九村であるが、川西市・猪名川町・宝塚市の佐曽利のほか、三田市の槻瀬・波豆川まで、のちに新田方が発展する各谷筋に広く分布している。このことは、多田荘が、多田院周辺でまず基礎ができ、ついで時の経過とともにその四至を順次拡大していったのではなく、かなり早い時期から広大な四至を設定していたことを想像させる。
 本田方のうちには、佐曽利郷のように新田方には属さない村は七村で、のこる一二村は新田方のうちにも数えられる。一方新田方のみにあらわれる村は一三村で、市域内の波豆・西長谷・玉瀬・大原野の四村はいずれも新田方のみにあらわれる。なお市域内の切畑村は、当然多田荘の四至内に入っていると思われるのに、段銭課税はされていない。その理由は不明である。また平井村は多田荘南端に近く、応安の棟別銭は負担するものの、永和の棟別銭と段銭の負担はない。したがって多田荘の内か外かは簡単にきめられない。つぎに注意されることは、米谷荘・山本荘のうちにも、小面積の新田方があることである。米谷村・山本村と書かれているが、多田荘から出作がおこなわれたものであろうか。
 以上が多田荘の全貌である。このほか米谷・山本・小戸荘に、多田院は段銭や棟別銭をかけることができたわけだが、村別・地区別の段銭課税面積では米谷荘七四町余が第一位、山本荘五三町余が第二位となっている。これら荘園が、領主を異にし、多田院が段銭・棟別銭のみを徴収できるので「諸本所分」といわれる。今までたびたび「加納」ということばを使ってきたのも、これらの荘園をさす。多田院に対する一国平均段銭を免除した文書でも「多田荘七郷(これはどのように編成されているのか明らかではない)と加納を加える定」とあるのが慣例になっている。
 ところで諸本所分のなかには、多田荘内の村々一〇村の田地も含まれる。市域内でいえば、西長谷村の三町余、波豆村の地頭分一町、同本所分九町余、大原野村の地頭分一一町余である。波豆村・大原野村に地頭職がおかれていたことがこれで判明する。その地頭職をもつ者が誰であったかは知る由もないが、地頭分の田地の年貢・公事に関しては、多田荘の支配権が及ばなかったのであろう。波豆村・西長谷村の本所分も、小面積とはいえ領有を異にしていたわけである。多田荘内にも、こうして一部に荘園の支配関係の入組がみられたのである。なお多田荘内の諸本所分ち加納のなかに入れるのかどうかはわからない。なおまた、さきの例示にみるように、大原野村の諸本所分には、佃(つくだ)の記載がある。佃とは前章で述べたように荘園領主の直営地の系譜をひき、一般の荘田とは異なる特別の支配下におかれた田をさす。室町時代後期では、名称をとどめるだけで形骸化していたはずであるが、多田荘にもかつて佃が設定されていたことだけはこれで判明する。
 以上が、段銭・棟別銭からみた多田荘と加納の村々の外観のあらましである。