では、これらの村々はどのような内部構造をもち、またどのような組織をもっていたのであろうか。市域の村々に関しては、この時代でも、これらの問題を深く追究できる史料は残されていないようである。市域内の村の内部構造をくわしく知ることができるのは、次章の江戸時代初期からである。したがってこの時代でも、畿内地方の一般的な情勢を簡単に述べて、参考に供したい。
さて室町時代から戦国時代の村に住んでいた人々は、(1)在地領主である国人層。(2)有力名主。大人(おとな)・乙名(おとな)百姓などともいわれる有力農民。(3)小名主や作人などの一般農民。(4)下人層に大別される。
国人層は一村、あるいは数村を本拠として、守護の被官となってその村を領主的に支配しようとし、(2)以下の階層のなかに被官をもっている場合もある。農業経営からはもはや完全に離れていたとみてよい。多田院御家人はこの階層に属すると思われ、室町・戦国時代、市域内に何人かのこのような国人がいたはずであるが、その活躍の姿は史料のうえにはまったくでてこない。
(2)以下の階層が、厳密にいえば村の住民にあたる。(2)の有力名主は、荘園の本来の名主の系譜をひき、数町歩以上の経営地をもち、一部下人らを使って自作するほか一般農民に小作させ、さらに加地子名主職を集積している場合も多い。いわゆる地主階層である。(3)の一般農民は、名主職の分解のなかから成長した中小名主や比較的安定した作職をもつ作人層である。夫婦を中心とする小家族で生活し、家族労働によって数段歩から一・二町歩程度の経営地をもち、いちおう自立した経営を営みえたはずである。鎌倉時代後期にはじまる農村社会の変動とは、つまりはこのような小経営農民の成長・発展の歩みである、逃散や一揆などの農民闘争も、この階層の人々の成長のためのたたかいであったといってよい。そして小経営農民がいちおうの自立を達成できるようになって、はじめて自治組織が生まれ、その団結と闘争の高まりが、小経営農民の自立をいっそう前進させていったのである。
(4)の下入層も、室町・戦国時代には少数はいたはずである。しかし(2)の有力農民が、下人を使って大規模経営を営む辺境型の経営は、宝塚地方に一般的に存在したとは考えられない。
鎌倉時代後期に、悪党と戦いをはじめて以後、荘園領主や守護・国人らとのいろんなたたかいを通じて、これらの村人による自治結合が前進した。自治組織は一般に「惣(そう)」とよばれる。村々にある神社を産土神(うぶすながみ)・氏神(うじがみ)あるいは鎮守(ちんじゅ)として崇敬し、村人はすべてその氏人であると意識するようになった。この産土神の信仰が、惣の結合の精神的中心となり、産土神の神前で集会を開き、乙名・年寄などの執行機関を選出して惣の運営にあたった。もっとも乙名・年寄などに選ばれるのは前述(2)の有力農民である場合が多く、その限り惣は民主的な自治組織とはいいかねる面もあるが、惣とはわが国の農民が、生活空間である村を単位として、はじめてもつことができた自治組織である。
惣は、村人の生活と生産を破壊から守り、向上させるための組織である。惣は農業生産に不可欠の山野や採草地や用水の管理にあたった。荘園制のもと、はじめそれらの管理権は荘園領主の手にあり、ついで地頭など在地領主の手に帰した場合も多い。ところが惣の結成によって、農民自身が採草地や用水を自主的に管理するようになったのである。その他共同の利益のために、種々な自主規制ももつようになった。そうした機能を存分に発揮するため、惣として田畑や山林など財産をもつ場合も多い。
荘園領主や国人の年貢・公事の過大な収奪は、農民の生産と生活を破壊する最大の原因であったといってよいが、惣はそれに対して根気強くたたかった。闘争にさいし、産土神の神前に供えた神水をくみかわし、つまり一味同心の誓いをあらたにしてたちあがった。そしてたたかいのつみかさねによって、農民は惣の結束をますます固め、惣の機能を拡大していったのである。