南北朝内乱のさなかに逃散を敢行した玉瀬や大原野の村に、このような惣が結成されていたことはまちがいない。しかし残念ながらその様子はまったく知ることができない。宝塚の近郊で、惣の存在とその実体をある程度知ることができるのは、川西市の久代村の場合である。
久代村には、「惣社」「氏神」とよばよる春日社が鎮座し、境内には大氏宮・八幡宮・祇園社・稲荷社・聖天宮・毘沙門天などの摂社と神宮寺の大日堂とがあった。それらに関する室町・戦国時代の史料十数点が、江戸時代の写本として伝えられている。それによると、まず年中行事としては、春日社では毎月朔日(ついたち)の御幣(ごへい)・正月朔日の御当(おとう)・四月八日の夏中日参御経(おきょう)・六月晦日の御祓(おはらい)・九月二十八日の祭礼・十一月十五日の御目焼(おひたき)などがあり、摂社でもそれぞれ年中行事があった。大日堂では正月三日の御経・同十一日の大般若(だいはんにゃ)経祈禱(きとう)・二月二十七日の八講・毎月二十八日の御経などがおこなわれた。他に左義長(さぎちょう)(正月十五日ごろ門松などを焼く行事)が東西二ヵ所でおこなわれ、二月十六日には武射(ぶしゃ)(厄除けや豊作祈願のため的を射る行事)の行事もあった。春日社の祭には猿楽(さるがく)もおこなわれた。
これら年中行事の費用や建物の修理費は、永正四年(一五〇七)の史料では三町三反余の田地があり、その年貢でまかなわれるしくみとなっている。年中行事はもとより村人の参仕によっておこなわれた。天文三年(一五三四)に春日社の造営がおこなわれ、その際の棟札銘と思われる文書が写されている。それによると、願人として久代東大隅守平豊実、久代中加賀守平光家、地下老衆(おとな)神主右馬・太夫・兵衛・治部・御当若衆十五人、東条老衆二人、とみえる。久代東・久代中のいかめしい名まえをもつ二人は、荘官の系譜をひき、久代村を根拠とする小国人で、おそらく池田氏の配下に属していたものと考えられる。老衆・若衆は、神社奉仕の組織であるが、同時にそのまま惣の組織であったのであろう。当とは、当番の意味である。
こうして春日社は久代村の惣によって祭られるが、その諸行事は、したがって村人の安全をまもり、農業生産の豊作を祈願するものであった。そして正月一日の御当にはじまる年中行事は、村の生活のくぎりであり、また楽しみでもあったであろう。小国人を含めてはいるが、久代村の人々がこうして春日社を信仰することを通じて、自治の結束を固めていったのである。
なお、永正四年の春日社神田目録には、神田一筆につき一人ずつ作人名が記載されているが、「回り作」「寄合作」と書かれているものが数筆ある。「回り作」は順番に耕作してゆくもの、「寄合作」は二人以上で作職をもつ場合で、ともに作人が特定の人に固定せず、それだけ作人の権利が弱い場合、とみられる。逆にいうと、それ以外の田では作人の権利は強かったといえる。また加地子関係は、神田全体四七筆のなかで七筆について記載されているにすぎない。鎌倉時代中期からはじまる加地子関係は、作人の成長によってしだいに解消され、土地に対する権利関係が単純化しつつあったことのあらわれであるかもしれない。
宝塚市内の神社で、このような中世の史料が判明する神社はない。しかし各村々にそれぞれ氏神があり、それぞれ村ごとの団結の精神的なよりどころとなったであろう。山本に鎮座する松尾神社は、そうした可能性を秘める神社のひとつである。もっとも松尾神社の創始は不明であるが、その地は山本荘にあたり、荘園領主である京都松尾大社を分祀して創始されたものであろう。当初の目的は、荘園領主の宗教的権威を、支配下の荘園にしめすものであったが、そうした神社でも産土の神として村人に信仰されはじめると、村人の結合の精神的支柱となり、荘園領主の支配に抵抗する拠点となってゆく例が多い。山本の松尾神社も山本荘の人々によってそのようにして信仰されたのではないだろうか。「とんとこ」とよばれる祭礼の行事も、室町時代の惣の祭りにさかのぼるかもしれない。
波豆の八幡神社も、室町時代にたしかに信仰されていた神社である。神社正面の石の大鳥居には、「応永卅二乙巳四月四日」と造立の日付を刻みつけている。中央部で高さ約三七〇センチメートル、完全な形で現在まで保存されている優品である。願主名は彫られていないが、波豆の氏神のために、波豆の惣の人々によって建立されたものではないだろうか。江戸時代の石鳥居などでは、寄進者のなまえを大書して彫りつける場合が多い。この大鳥居に寄進者のなまえがないことは、逆に特定個人の行為ではなく、惣の人々の総意によって建立されたことをしめしているようにも思われる。なお波豆の八幡神社は、もと現在よりも下方、千刈水源池のなかにあった。さらに下方に、近時まで石切場があったが、中世にすでにあったのではなかろうか。石材の切出しから運搬・造立まで、すべて惣の人々の労力奉仕によってなされたものかもしれない。いずれにしても波豆の八幡神社も、波豆村の惣の精神的拠り所となったことは確実である。
久代村の春日社の中世末における信仰のあり方は、こうして宝塚市内でも各地でありえた惣の実像を、かいまみせてくれる。史料の関係から説明の順序が逆となったが、こうした惣の組織なしに、逃散や一揆をたたかうことはできない。市域内でわずかではあっても農民闘争の高まりがみいだされることは、村々の惣の発展のなによりの証拠となるものである。