宝塚は中世石造美術品の宝庫

122 ~ 124 / 602ページ
 中世宝塚市域の村人の生活について、文献のうえでこれを解明してゆくことは、こうしてじゅうぶんにはなしえなかったが、中世の村の雰囲気を今によく伝えてくれるなによりの記念碑がある。市域全体で、三五基にも達する、石塔をはじめとする石造美術品である。その多くは西谷地区に集中するが、遺存の密度の高さと作品が美術的にも優秀である点で、全国的にみても屈指の地域であるということができよう。
 それら石造美術品に関しては、すでに田岡香逸によって『宝塚市の中世石造美術』と題し<宝塚市文化財調査報告第4集>としてくわしい研究が公刊されている。また本市史にもさらに精緻な研究が別編に発表される。したがって石造美術品に関するくわしい報告はすべてそれにゆずり、ここでは主として右の調査報告によりながら、以上の歴史の流れと関連させて「石造美術品の意味するもの」を簡単に考えておくことにしよう。
 さて市域内の中世石造美術品は、形式上から文永・弘安ごろ(一二六四~一二八七)と推定される先述小林平林寺所蔵の石造露盤を最古とする。年紀のあるものでは、正応三年(一二九〇)の中筋八王子神社の板碑が最古で、慶長十八年(一六一三)の安倉地蔵寺の墓地にある一石五輪塔まで全三五基に達する。なお前章で述べた満願寺九重塔を建立した尼妙阿も市域内に居住した人であったとすれば、中世宝塚の人々が造立し今に残る石造美術品は三六基ということになろう。
 

写真60 宝篋印塔と五輪塔群
波豆の普明寺墓地にある


 
 これら石造美術品は、さきに述べた波豆八幡神社の大鳥居を除き、すべて仏教信仰の所産である。形のうえから仏教関係のそれを分類すると、つぎのとおりとなる。なお各形式について筒単な説明をも付加しておく。
 
  宝塔(ほうとう)(基礎・塔身・笠・相輪の四部よりなり、塔身が円筒型) 一
  宝篋印塔(ほうきょういんとう)(基礎・塔身・笠・相輪の四部よりなり、塔身は方型、   笠を段形にし軒の四隅に隅飾とよばれる突起をもつ。写真60の右端参照) 一七
  五輪塔(ごりんとう)(基礎・塔身・笠・請花・宝珠の五部よりなり、それぞれ方・円・三角・半円・段型をなす。写真60の左側参照) 二
  一石(いっせき)五輪塔(右の五輪塔を一石で彫成したもの。室町時代後期に多い) 二
  板碑(いたび)(薄い板石で、先端を山型に切り、肩に二段の切りこみをつけ、そのしたに額の部分をつくって仏の種子〔仏をあらわす梵字〕などを彫り、根部を地中に埋めて礼拝の対象としたもの。第一章章頭写真・写真62右側参照) 四
  笠塔婆(かさとうば)(塔身のうえに笠をのせたり、板碑のうえに笠をのせた形式。板碑が鎌倉時代にあらわれた新形式であるのに対し、平安時代からあらわれはじめる。写真62左側参照) 三
  石仏(せきぶつ)(石で造った仏像。もっとも宝篋印塔も板碑も以上すべて仏を刻んだものであるので、以上の分類に入らない形式を石仏とよぶ。口絵5参照) 二
  石龕(せきがん)(石で造った祠(ほこら)) 一
  石造露盤(ろばん)(宝形造りなどの堂の屋根蓋におく) 一
  石造水盤(すいばん)(水だめ) 一
 
 三五基のうち、造立の年紀を刻まれているものは一八基であるが、無年紀のものも田岡香逸によって年代が厳密に考証されている。報告書で追加された六基を除き二九基についてみると、鎌倉時代四基、南北朝時代八基、室町時代一二基、戦国時代五基となる。また地域別では、西谷地区に三五基中二七基が集中している。
 

写真61 大原野中部の上西旧墓地