だれが、なんのために

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 ではこれら多数の石造美術品は、いったい誰が、何の目的のために建立したものであろうか。そうしたことを知るには、満願寺の九重石塔のように、関係する文書があると一目瞭然となるが、それはまことに珍しい例に属し、そうした文献史料の併存は望むべくもないし、造立の年月日や願主のなまえなどいっさい刻みこんでいない場合も多い。しかし有力な手がかりを刻みこんでいるものもあり、全体としてどのような信仰の所産であったかを、推測することができる。
 

写真62 笠塔婆(左)と二尊種子板碑
波豆の普明寺墓地にある


 
 そうした石造品の代表は、波豆八幡神社の地上四メートルもある大板碑である(第一章章頭写真参照)。そこには、つぎの二八文字が刻まれている。
 
        為二親・法界衆生
 (バン)(アーンク)(キリーク) 嘉暦三年戌寅初秋上旬
        願主妙信・合力衆等
 
三字の梵字は、うえから金剛界大日如来・胎蔵界大日如来・阿弥陀如来をあらわす。嘉暦三年(一三二八)初秋(七月)上旬、両親と法界衆生のために、妙信に合力衆が協力して建立した、ということをしめしている。つまり妙信が両親の菩提のために造立した、という単純なものではなく、両親のほか、法界衆生のため、より具体的には法界衆生の平等利益と現世安穏・後世善処(この世では平穏無事な生活を送り、死後は極楽往生する)の願いがこめられており、そのため妙信に多くの人々が協力して、この巨大な板碑となったことをしめしている。満願寺の九重石塔が尼妙阿の単独建立になり、しかも供養の料田までも後日満願寺に寄進しているのに比べると、この板碑を作るにさいして妙信は、あたかも資金不足のため、合力衆を募って資金カンパを求めたように見える。だがそれはあまりに皮相な見解である。九重石塔の場合のように特定個人が特定個人のために造立したものであっても、その功徳はすべての人々に及んで人々が平等に利益をうけ、造立者自身もいっそう現世安穏に、死後は極楽往生できると信じられていた。また塔をつくって見知らぬ人々にも回向(えこう)してもらうことで、回向した人も功徳をうけ、同時に被供養者がいっそうよく極楽往生できると信じられていた。八幡神社の板碑に刻まれた文字は、このような造塔の信仰を、よくしめしていてくれるのである。
 

写真63 波豆普明寺の石造湯槽


 
 ところでそうした信仰は、鎌倉時代後期にはじまり、宝塚地方庶民にもひろまったのである。いうまでもなく、仏教信仰が宝塚地方にひろまったのは遠く古代にさかのぼり、清澄寺や中山寺などの寺院が営まれていたことは第一巻で述べたところである。現世の罪障の自覚にもとづき弥陀の慈悲にすがって極楽往生しようとする浄土信仰も、多田院で出家した多田満仲の出家のなかに、すでに色濃くみられた。しかし鎌倉時代初期まで、仏教信仰は貴族や武士らの特権階層にとどまり、一般庶民は文字通り縁なき衆生にすぎなかった。西谷地区の年貢は、多田院の費用にも使われていたはずであるが、農民たちは年貢を搾取されるだけで、多田院の祈禱によって救済されることはなかったのである。
 市内に残る石造品に刻まれた、造立者が信仰する本尊について田岡香逸はつぎのように分類している。
 
  金剛界四仏 一一  金剛界五仏 一  胎蔵界大日 二  金剛界大日 二
  弥陀四地蔵  二  五大思想  二
 
 金剛界・胎蔵界の大日信仰が圧倒的に多く、それに五大思想を加えて、真言密教系の信仰をしめしている。多田院や清澄寺・中山寺などが天台系の寺院であるのに対して、石造品にあらわれた信仰の対象は、きわだった対照をなしているといってよい。ということは、その信仰は、市域内の在来の寺院の僧侶によってひろめられたのではなく、別の伝導者、たとえば、聖(ひじり)とよばれた遊行の僧などによってひろめられたものであることをしめしている。真言密教系の大日信仰が弥陀信仰といっしょになり、村から村を回る聖たちによってひろめられたのではないだろうか。聖たちは、むつかしい教理よりも、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽往生ができることを熱心に説き、そうして造塔の広大無辺な功徳を説いて回った。その聖たちは、高野山を本拠とする、いわゆる「高野聖」ではなかったかろうか。市内の石造美術品に刻まれた本尊が真言密教系であることが、そのことを証している。そして石造美術品が寺院勢力が強かったはずの平野部に少ない(むろん、平野部の石造美術品が近世以後に破談されたかもしれないという事情はあるにしても)ことも、それでいちおう説明はつく。田岡は分類結果からこのように推定している。