惣の記念碑として

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 だが高野聖など遊行僧の熱心な説得だけでは、田岡がさらに考察をすすめているように、石塔などの造立が鎌倉時代後期にはじまり、室町時代を最盛期とすることはじゅうぶん説明できない。高野聖の活躍は、一〇世紀にはじまっていた。それが実を結びはじめるのが、鎌倉時代後期になってから、ということである。つまりうけいれる庶民の側の成長を待たねばならなかったのである。鎌倉時代後期こそは、中小名主や作人が一軒前の農民として自立しはじめ、新しい村が出発した時期にあたる。西谷の地には、前述のように石材の産地があったとみられ、西谷地区が石造品の宝庫である理由の一端はそのことにも求められるが、それにしても造立には少なからぬ費用がかかる。農民の成長によってすこしずつでもその費用をもちよることができるようになった。そしてより根本的にいえば、農民が従来の名主に従属した立場から一軒前の農民に成長しはじめることによって、人間としての自覚を強め、それだけに罪障の意識も強まり、極楽往生を願う気持がそれだけ強くなったことである。農民の信仰は独立自営をめざしてたたかう、その苦悩の所産であったといってもよい。浄土・法華・禅宗は通常鎌倉新仏教とよばれる。このうち、おおまかにいって浄土は農村へ、法華は商工業者へ、禅は武士へ多くひろまっていったが、ともにこうした人間としての自覚と苦悩のふかまりが、新しい信仰の基礎となったのである。
 ところでいまひとつ注目しなければならないのは、浄土に生まれかわることを願う信仰は個人個人の念仏による信仰とともに、集団で念仏し、造塔などの作善をする信仰形態をともなっていたことである。波豆八幡神社の板碑にも「合力衆」と「衆」の字が書かれていたが、その傍らにある明徳二年(一三九一)銘の宝篋印塔には、「逆修(ぎゃくしゅう)一結衆等」と刻まれ、組織をもった一結衆があったことをしめしている。逆修とは、自分の生前に死後のことを供養することである。もと波豆の勝福寺にあり、現在は旧橋本関雪別邸にある永享七年(一四三五)銘の宝篋印塔にも「一結衆等敬白」と刻まれている。また波豆八幡神社の康永二年(一三四三)の五輪塔には、「四十余人念仏衆」と刻まれている。一結衆というとき、合力衆と同じように、塔の造営のために臨時に一結した人々、と考えられなくもないが、「四十余人念仏衆」となれば、念仏をすすめる集団が存在したとみてまちがいないであろう。
 波豆の村は、棟別銭の史料によれば、すくなくとも一四四戸あったはずで、四十余人の念仏衆では村内の一部の結合ではある。またその念仏衆と、八幡神社の石鳥居の寄進者が同じなのかどうか、もとより知る由もない。また念仏は、本来天台宗でも真言宗でも、志を同じくする者が結社して唱えることがすすめられた。しかし中世村落の念仏結社は、新しい村の発達と関係なしに考えるわけにはいかない。そしてさらにいえば、念仏結社も、新しい村の発達、惣の団結の高まりに大きな影響を及ぼしたであろう。
 こうしてみると、今に残された石造美術品は、鎌倉時代後期にはじまる惣の輝かしい記念碑である、ということができるであろう。