西長谷の大般若経

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 ところでこのような仏教界の新しい動きは、旧仏教の内部でも革新運動を起こさせることになった。鎌倉時代後期に、多田院の修造に尽力した忍性と、その師叡尊は、そうした運動をおこなった第一人者であり、律宗を再興した人として著名である。忍性によって修造されたことで、多田院は天台宗に律宗をも加えるようになった。
 弘安四年(一二八一)三月、前述のように多田院本堂の完成供養が叡尊によっておこなわれたが、ときに叡尊は摂津・播磨方面をまわって人々に説教し戒を授ける行脚の旅の途中で、三月七日有馬の温泉寺に入って堂供養をおこない、十九日は二二一人に菩薩戒を授けた。二十日多田院に入り、二十三目新しく完成した本堂の堂供養の後、二十四日にはその堂で四三二人に同じく菩薩戒を授けた。この年八月にも叡尊はふたたび多田院を訪れ、四一五人に授戒している。多田院や有馬温泉で叡尊の教を受けた者は一〇〇〇人を越すわけだが、このなかには宝塚市域の人々も含まれていたことであろう。
 西長谷の普光寺には、南北朝時代の康暦二年(一三八〇)に信者によって寄進された大般若経六〇〇巻を蔵していた。大般若経は正しくは「大般若波羅密多(はらみた)経」といい、中国唐の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が経典を集大成して翻訳したものにはじまる。わが国でも奈良時代からこの経を用いる法会がさかんで、国土安穏・除災招福のため諸大寺で恒例の勅会としておこなわれた。律令制の衰退後は、大般若経に対する信仰はしだいに民間に及び、経典の出版もさかんにおこなわれた。
 普光寺の大般若経は、佐々木道誉の一族佐々木氏頼によって出版されたものであることがわかるが、西長谷の村人たちが、多田荘に関係の深い京極氏を通じて、いわば、つてを求めてこの経を手に入れたものであろうか。ところで出版されたものとはいっても、六〇〇巻の大部であるから少なからぬ費用を要する。西長谷の村人たちがわずかずつでも費用をだしあって購入したもののようである。
 もっとも普光寺でこの経を用いてどのような法会がおこなわれていたものか、などについてはいっさい史料は残されていない。しかし奥書のなかには、普光寺が大般若経を備えつけるにいたったいきさつを推察させる文言を書きしるしたものもみえる。たとえば、巻百の奥書には、大略「大般若経の功徳(くどく)によって寺門繁昌して、除災与楽、任意増長福寿し、願主も見仏聞法の望を遂げ、現世安穏・後世善処、求めるところをすべて満足させることができる。また願主の企てに寄附をして結縁(けちえん)することで、大般若経の功徳にあずかり、すべての人々とともに、生死の根元を断ち、ひとしく菩薩の覚位に到ることができる」と記し、一分檀那沙弥覚超(だんなしゃみかくちょう)と大願主阿闍梨祐賢(あじゃりゆうけん)の二人が署名している。大願主が全体の発起者であり、この企てに賛同した人々が、一分檀那として募金に応じたものであろう。そして願主・結縁者が大般若経の功徳をこうむることはもとより、すべての人々にも功徳が及ぶであろうことが期待されていたのである。
 大般若経は、平安時代末には満願寺にも備えられ、料田も寄進されていたようである。それはしかし個人の寄進行為であった。南北朝時代に入ると、同じ経典が、多くの人々の結縁によって普光寺に備えられ、その功徳があまねく及ぶことが期待されていた。そこに、信仰の形はやや異なるものの、石塔を建立して供養するのと同じ村人たちの仏教信仰のひろまりと深まりとを、みることができる。そして普光寺の年中行事として大般若経の供養がつづけられたのであろう。まえに述べたように久代春日社大日堂の年中行事のなかに正月十一日の大般若経のみられることが参考となる。
 普光寺では、その後明徳元年(一三九〇)に大般若経を収める箱が新造され、以後室町・戦国時代を通じて信仰された。江戸時代の元禄五年(一六九二)には、長谷村東中の平兵衛・長兵衛の二人が施主となって経典の修復亀おこなわれた。しかし寛政六年(一七九四)になって、有馬郡平田村(神戸市)佳林寺住僧の斡旋(あっせん)によって、この経典は近江の常信寺(大津市)に譲られた。そのころでは、六〇〇巻はかなり欠巻もあったようで、普光寺では大般若経を別に新調し、旧版を処分したのであろう。常信寺では欠巻を補充して、普光寺旧蔵のものを現在も所蔵している。明徳元年の銘がある収納箱も、常信寺に伝わっている。