室町時代の清澄寺

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 応仁の乱にむかって、世情の動きがあわただしかった文正元年(一四六六)二月、相国寺鹿苑院(ろくおんいん)(京都市)の蔭凉軒主季瓊真蘂(きけいしんずい)が、有馬に湯治し、帰路清證寺にたちよっている。蔭凉軒には僧録司(そうろくし)がおかれ、禅宗全体をとりしきり、幕府政治のなかにも大きな発言力をもっていた。真蘂はそうしたいわば大物であり、かつ有馬滞在がほぼ一ヵ月の長期にわたり、蔭凉軒の公式記録『蔭凉軒日録』のなかに比較的くわしく滞在記録をとどめている。
 真蘂は二月二十九日京都をたち、久我(こが)願王寺(京都市)で昼食、荒牧の上月大和守の家にとまって、翌日湯山に入った。上月氏はその後もたびたび湯山に真蘂を訪ね、なにかと世話をやいている。その活躍はあまり他の史料にはあらわれないが、南北朝時代以来活躍した国人であったようである。
 真蘂には侍所所司代の多賀豊後守(たがぶんごのかみ)高忠らが同行し、有馬には細川氏の有力被官人と思われる安富勘解由(やすとみかげゆ)左衛門尉や画家東坊宗湛(そうたん)、能楽の今春(こんぱる)与四郎、田楽(でんがく)法師の徳阿弥(とくあみ)らも滞在していて、連日数回の入浴のほか、たがいに食事や茶に招待しあい、連歌や小歌舞などもたびたびおこなわれて、にぎやかな湯治となった。この人々のうち何人かは同行であったらしい。
 真蘂の宿所には、声をたてて魚を売りにきたり、その他の商人も種々な売声をあげてやってきた。湯治客めあての行商人がおおぜいいたわけだが、西摂の商業の数少ない史料として注目される。池田氏も真蘂のもとへ手みやげ持参であいさつにでむいたが、池田筑後守・民部丞親子は高利貸も営んでいて「富貴無双」で、月々に入る利子が一〇〇〇貫文、一年で一万二〇〇〇貫、また一年に米を一万石収めるとの見聞を書きとめている。
 

写真65 旧清より南方を望む


 
 真蘂は閏二月二十一日まで、折から春のさかりの有馬を楽しみ、二十二日有馬をたって帰路につき、まず清澄寺を訪れた。その様子を『蔭凉軒日録』はつぎのように書いている。鎮守荒神の廟前には桜花が満開で雪のようであった。坊に入って茶を喫し、本堂に焼香三拝した。ついで老僧がきて、尊恵上人が閻羅(えんら)(魔)王宮に行って与えられた金泥の法華経をみせた。これを信敬するものの、はなはだ奇と感じたことであった。同伴の田楽法師徳阿弥が、傍の酒樽にばかり目をやって法華経をみなかったので、一同大笑した。堂前には山をめぐらせ松が茂り、その中間を遠くみはるかす景色がまたなんともいえない。あれはどこかと問うと、泉州だと答えた。ついで荒牧の上月大和守の私宅に入って食事をした。座敷には花瓶をならべ、さながら大原野(京都市)の花をみるように美しく桜が飾られていた。さらに南側の上月太郎次郎の屋敷にも行った。庭には水を滝から落していた。聞けば、足利尊氏の時代に、軍忠によってこの屋敷を拝領したという。夜は酒宴となり、あるいは歌にあるいは舞に、大いに楽しんだことであった。
 翌二十三日、真蘂は京都に帰っている。清澄寺の風光が、かなり具体的に記されていること、第一巻で述べたように『冥途蘇生記(めいどそせいき)』が広く信じられており、その金泥法華経の「実物」が存在したこと、などが注目される。また国人上月氏の歓待ぶりも、この地方の国人の生活をかいまみせるものとして貴重である。
 鎮守清三宝荒神への信仰は、宮中でもひきつづきさかんであったことは、宮中のお湯殿に参仕する女官の日記である『お湯殿の上の日記』によって推測される。すなわち日記の残されている文明十四年(一四八二)から天正十七年(一五八九)まで、百数十回にわたって、官女または廷臣を清荒神に代拝(天皇の代理として参拝すること)させた記事がみえる。また享禄三年(一五三〇)二月には、摂州清澄寺の経典を後奈良天皇が頂礼された記事もある。官女・廷臣が代拝した清荒神は摂津ではなく、宮中に勧請された清荒神であったが、第一巻で述べたように、宇多天皇の時代にはじまるという清荒神への皇室の信仰が、室町時代後期以後の、いわゆる皇室の式微時代にあっても継続していたことがわかる。
 皇室や上層貴族の信仰や習俗が、やがてしだいに庶民に移ることが、庶民信仰史のひとつの型であるが、清荒神への信仰もまた例外ではない。中世の庶民の間に、どの程度荒神信仰がひろまったかは明徴を欠くが、中山寺と同じように、広い信仰を集めていたと思われる。『冥途蘇生記』も、そうしたなかで清澄寺への信仰をすすめるために創作されたものとみてよいであろう。