織田信長は足利義昭(よしあき)を擁して、永禄十一年(一五六八)九月二十六日上洛した。当時畿内各地には三好三人衆(三好長逸・岩成友通・三好政康)が勢力をはっていた。これよりさき永禄八年、義昭の兄将軍義輝(よしてる)は、三好三人衆方のひとり松永久秀に殺されていた。義昭が信長にたよって幕府の再興を求めてきたので、渡りに舟の信長は義昭を擁して、上洛の名分とすることができた。
信長が上洛すると、三好三人衆がおしたてた将軍足利義栄(よしひで)は、さっそく京都をのがれて、摂津富田(とんだ)城(高槻市)に入った。山城には勝龍寺城(長岡京市)に岩成友通がおり、摂津では芥川(あくたがわ)城(高槻市)に三好長逸・同政康、越水(こしみず)城(西宮市)と布引(ぬのびき)滝山城(神戸市)には篠原長房の軍がいた。いずれも三好三人衆方の勢力であった。また河内では若江城(東大阪市)に三好義継(よしつぐ)が、高屋(たかや)城(羽曳野市)には畠山高政がいた。
信長は、入京した翌日には早くも勝龍寺城を落とし、つづいて右の諸城を攻め、三好三人衆を阿波に、篠原長房を淡路に追い落とし、またたくまに畿内を平定した。たまたま九月に将軍義栄が病死したこともあって、ここに畿内の支配は大きく信長に傾いていった。
このようなあわただしい情勢のなかで、畿内の国人をはじめとする小さな勢力は、信長の入京後一〇日もたたないうちに、ほぼ信長に従うことになる。市域付近の摂津の国人としては、池田城に池田勝正、伊丹城に伊丹親興(ちかおき)がいた。
池田勝正は九月三十日信長の攻撃をうけ、いったんは城外に切ってでて防戦し、寄せ手に多数の死傷者をだしたが、手勢が少ないため城へ逃げこみ、信長の勧告を入れて十月二日、降伏した。勝正は旧領を安堵(あんど)されたばかりでなく、勧告時の約束に従って二〇〇〇貫の所領の加増をうけた。
かねてから三好三人衆と不和となっていた伊丹親興は、信長が入京するとさっそく九月二十九日、挙兵して信長に応じた。そして三好三人衆方のいる川辺・武庫両郡の各地に放火した。信長は親興を兵庫頭(ひょうごのかみ)とし、所領三万石を給した。そのほか摂津では高槻の入江春継、茨木の茨木孫次郎らも降伏し、いずれも旧領を安堵された。
十月一日、信長は芥川城に入り、義昭は越水城に移ったが、その翌日には信長は、摂津・和泉に矢銭(やせん)(軍用金)を課している。本願寺に五〇〇〇貫、堺に二万貫、法隆寺に一〇〇〇貫という額であった。
ついで十月四日には、すでに述べたように、池田勝正と伊丹親興に旧領が安堵されたが、それと同時に、和田惟政(これまさ)には義昭の上洛をたすけた功績によって芥川城が与えられた。こうして摂津は、和田惟政・池田勝正・伊丹親興によって三分支配されることとなり、摂津三守護の時代がここにはじまるのである。
摂津以外の畿内の諸国でも、状況は同じであった。同日、信長にいち早く寝がえった松永久秀に大和一国が、三好義継には河内半国と若江城が、畠山高政には河内半国と高屋城が安堵された。
入京後旬日を経ぬうちに、信長はおおむね畿内を平定したこととなる。
将軍義栄の死後、義昭は早くも十月十八日、征夷大将軍の宣下をうけ、つづいて二十二日参内した。このとき伊丹親興は将軍の警固役を勤め、池田勝正は辻固(つじがた)め(市中警固)の役を勤めた。このように戦後処理をひとまず終えると、信長は十月末岐阜(ぎふ)に帰っていった。