摂津の三守護各地に転戦

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 信長が岐阜に帰ると、いったんはなりをひそめていた三好三人衆の残党が、十二月末にはふたたび畿内でうごめきはじめた。永禄十二年正月、さきに信長が課した矢銭に応じなかった堺の町人の支援をうけて、三好三人衆は阿波から堺を経て京都に進出し、義昭の仮御所本圀(ほんこく)寺を包囲した。高槻の入江春景(はるかげ)は三好に通じて池田勝正や伊丹親興の入京を阻(はば)んだが、摂津三守護和田・池田・伊丹氏や若江城の三好義継らが将軍をたすけて、東寺(京都市)の西方や桂川付近で防戦し、信長が急ぎ入京するまえに三人衆方を撃退した。しかし、伊丹兵庫頭親興は手傷を負い、部下の伊丹衆が八〇人ばかりも討死した。この激戦に三好三人衆は本囲寺の囲みをといて、再度阿波へ敗走した。
 三好三人衆に加担した堺はこのあと信長から「今後三好三人衆をたすけるようなら、町をことごとく焼きはらい、町民をひとりのこさず斬り殺す」ときびしくつめよられた。このため堺はさきに拒否した矢銭二万貫を上納し、今後は三人衆方に味方しないことを約束せざるをえなかった。余勢をかって信長の軍勢は、二月二十八日には矢銭を賦課するため、尼崎に来襲した。尼崎はその上納を拒否したので、長遠寺(じょうおんじ)・如来院の二寺を残して全町(市庭(いちにわ)・風呂辻・別所・辰巳)が焼き討ちされた。多田院の方は三月、とくに矢銭の徴収を免除する旨の奉行連署状を下されている。
 この年八月になって信長は、毛利氏の請いを入れ、木下秀吉に命じ播磨・但馬の攻撃に向かわせた。但馬には生野銀山があった。天下統一をめざす信長にとって銀山を確保することは重要であったから、播磨・但馬の制圧を信長はひそかに策していたのである。但馬は当時山名祐豊(すけとよ)の領国であったが、出雲(いずも)・伯耆(ほうき)の尼子(あまこ)氏の圧力をうけてこれと結んでいた。そして一方毛利氏は尼子氏と事を構えていたため、たすけを信長に求め但馬攻撃を依頼してきたのであった。そこで信長の命をうけた秀吉は生野銀山を制圧し、山名の居城子盗(こぬすみ)(此隅)城(出石郡出石町)・垣屋(かきや)城(城崎郡日高町)を攻略し、生野銀山は信長の直轄領となった。
 摂津の三守護和田・池田・伊丹氏ら五畿内の国人たちはこの但馬攻略に参加した。さらにかれらは秀吉が播磨に軍を返して、浦上宗景(むねかげ)を播磨浦上城(揖保郡御津町)に攻撃したときにも、この戦いに加わった。このような但馬・播磨での軍事行動のほか、信長は一方では、伊勢の征服も終えた。信長にとって、永禄十二年は、畿内からその周辺へ支配の手が順調にのびた時期であり、その配下に入った池田氏以下摂津三守護らもまた順調に、分相応の活躍をすることのできた年となった。