こうして順風満帆ともいうべき永禄十二年は、しかし、徐々に反信長陣営の建てなおしがはかられていた年でもあった。翌元亀元年(一五七〇)将軍義昭は近江の浅井長政、越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくらよしかげ)や本願寺などと接触し、信長に対抗する気配をみせて、義昭と信長の間がけわしいものになってきた。四月信長は朝倉義景をうつために越前に軍を進めた。ところがはからずも信長の妹お市を妻としていた浅井長政が信長にそむき、信長を背後から攻撃してきた。このため信長は朝倉攻めの軍をひき、湖北から湖西を通って京都へとのがれ、さらに伊賀を越えていったん岐阜に逃げもどる結果となった。
しかし六月には信長はふたたび陣容を建てなおし、三河の徳川家康の援助を得て、浅井長政の本拠小谷(おだに)城(滋賀県)を攻撃し、その二十八日には城の南方姉川(あねがわ)での合戦で浅井・朝倉の軍を大破した。
ちょうどそのころ畿内ではまたまた三好三人衆の動きが活発となってきた。七月、三好長逸ら三人衆方は西成郡に進出して、中島・天満ガ森付近に陣をしき、さらに三面が淀川、一面が海に接する要地野田・福島にとりでをきずいた。川の浅瀬には乱杭(らんぐい)・逆茂木(さかもぎ)を設け、本願寺光佐(こうさ)(顕如)と暗黙のうちに連携を保って信長に反撃する姿勢をしめした。七月二十九日には三人衆支援のため淡路の安宅(あたぎ)信康が一五〇〇の兵を率いて兵庫に上陸し、八月九日には陣を尼崎に移した。そしてただちに伊丹城に伊丹親興を攻めた。伊丹親興はこれを迎えうち、一〇〇人ばかりが猪名寺までうって出て尼崎へと撃退した。八月十三日のことであった。
このような騒然とした畿内の情勢のなかで、信長は岐阜をたち、京都から河内枚方(ひらかた)を経て八月二十六日、天王寺に入って陣をとった。そして天満ガ森・渡辺・川口・神崎・津村・上難波・下難波・木津・今宮に陣をしいて、伊丹親興・和田惟政・三好義継・松永久秀らがはせ加わり、三人衆の野田・福島のとりでにしだいに迫った。九月には野田・福島から一〇丁ばかり北にある三人衆のとりで海老江(えびえ)を奪取した。ここで至近の地から大砲と鉄砲三〇〇〇挺、二万の軍勢をもってする野田・福島の総攻撃がはじまった。こうして野田・福島の陥落が迫ると、三人衆と手をにぎっていた石山本願寺は滅亡の危機を感じ、九月十二日、ついに挙兵して信長に反旗をひるがえし、諸国の門徒にも蜂起をよびかげた。一方浅井・朝倉の連合軍も南近江に軍を進めてきた。
事態の急変を感じとった信長はすばやく野田・福島の囲みをといて、京に兵を返した。加えてこの年十一月には、伊勢長島(三重県)の一向一揆(いっこういっき)の蜂起もあり、危機を迎えた信長はいったん浅井・朝倉とも和平交渉を結び帰国しなければならなかった。元亀元年は信長にとっては、まさに苦難の年であった。