本願寺顕如・毛利・武田・三好三人衆・浅井・朝倉・六角(ろっかく)の諸氏や、近江・北国・美濃・長島の一向一揆など、反信長勢力の背後にあって糸をひき、諸勢力の中核となって行動しようとしたのは、将軍義昭であった。そして信長とこれら反信長勢力の間にはさまれ、摂津の三守護たちはもみにもまれ、あるいは一族が分裂し、あるいは信長に反旗をひるがえして、みずから没落への道をたどることとなっていった。
三守護のひとり和田惟政はさきに足利義昭の入京をたすけて功労があり、その後も義昭との関係は深かった。そして信長と義昭の間が険悪になるにつれて、いきおい和田の義昭寄りの姿勢が目だつようになった。永禄十二年秋すでに和田惟政が信長の勘気をこうむったというのもそのことと関連があろう。勘気は元亀元年二月いったん解かれたが、その後も和田は「公方(義昭)家無二の味方」として、信長に従わなかった。
その和田惟政を池田勝正がたすけた。信長は池田勝正と対立していた次弟、池田城の池田知正(ともまさ)とその家来の荒木村重に命じて、惟政攻略にかかった。そしてついに元亀二年八月二十八日和田惟政は摂津郡山(茨木市)の戦いで、荒木の武将中川清秀によって討ちとられた。
摂津三守護のうち残る二人、池田勝正・伊丹親興もやがて三年後には惟政と同じ運命をたどることとなる。勝正はもともと武将の資質に欠ける人であった。永禄十二年将軍義昭が三好三人衆によって京都本圀寺に包囲されたとき、勝正は将軍の味方となって桂川付近で防戦したが、戦いに敗れるや家来たちを放置して、ひとり丹波路から池田城に逃げ帰るという有様であった。このように一族を統率する器でない彼のもとで、ほどなく元亀元年には池田氏は内部に分裂を起こし、その六月には、勝正も家来荒木村重によって池田城を追いだされた。この年三好三人衆が京都の回復をめざして摂津西成郡に進出してきたことはさきにふれたが、三人衆のこの進出も、池田氏の内紛で、一族のなかに三人衆に味方するものがでたことがきっかけとなったといわれる。
さて、この元亀元年三好三人衆の進出に呼応して、淡路の安宅信康が兵庫・尼崎から伊丹に進み、伊丹親興の伊丹城を攻めたとき、池田勝正は親興をたすけた。さらに八月下旬には勝正は親興・惟政らとともに、信長・義昭勢として、三好三人衆のたてこもる野田・福島のとりでの攻撃に加わった。しかし摂津三守護は、いずれも信長方というよりは義昭方であったから、義昭を中心として本願寺顕如・浅井・朝倉ら信長に対抗する勢力の糾合(きゅうごう)がすすむにつれて、勝正・親興は義昭方につき、信長から離反する動きをみせた。
元亀二年信長が、その部将として活躍するようになった荒木村重に和田惟政を攻撃させたさい、勝正は惟政に通じて信長に従わなかったし、その後も義昭方として行動した。このため天正二年(一五七四)いよいよ勝正・親興はともに荒木村重によって追われ、勝正は原田城(豊中市)をでて、高野山にのがれた。親興もまた伊丹城を追われて、伊丹城には村重が入城することとなった。ここに摂津三守護はともに没落し、代わって摂津ではしばらくの間荒木村重の時代が出現することになる。