将軍義昭の追放

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 苦難の年となった元亀元年に信長はひとたび浅井・朝倉と和睦したが、これは一時の便宜にすぎなかった。年が明けて元亀二年になると、ふたたび戦雲は近江にただよった。すでに信長は永禄十二年ごろ分国近江に散在する山門領を没収していたが、元亀二年九月には、ついに比叡山を焼きうちにした。それは近江路をおさえるばかりでなく、畿内中枢部への進出を確保することでもあった。そして当面江北の浅井氏平定の準備をととのえることともなったのである。翌元亀三年には信長の軍は浅井氏の小谷城を攻撃し、江北の各地に放火した。
 このころから、反信長勢力の糾合を陰で画策していた将軍義昭と、信長との関係はしだいに悪化し、元亀四年三月義昭が信長の和平の申入れを拒絶したことから、両者は決定的に決裂した。その後正親町天皇の斡旋(あっせん)によって四月いったん和睦は成立したが、それもつかのまで、七月には義昭は毛利氏と結び、槇島(まきのしま)城(宇治市)によって、兵を挙げた。しかし信長は、これを一日にして陥れた。
 

写真91 織田信長
天下布武の朱印


 
 信長のはからいで命を助けられ、三好義継の居城河内の若江城に追放された義昭は、ここに将軍の地位を失った。かろうじて余命を保っていた室町幕府は名実ともに滅んだのである。同月二十八日には年号も天正と改まり、いよいよ信長が足利氏に代わって天下の政権を掌握する、新しい時代の幕は開かれた。
 この年天正元年八月には信長は朝倉氏を、ついで浅井氏を滅ぼした。かつて信長をいくたびか窮地におとしいれた反信長勢力の包囲陣もついについえ去ったのである。いまは一向一揆と顕如の石山本願寺、それに毛利氏を残すだけとなり、信長の天下統一の事業は前途やや明るいものとなった。天正三年には長篠の合戦に、武田氏にも決定的打撃を与え、信長の支配は畿内から、東はその周辺の諸国にまでひろがった。壮大な安土城の構築は、翌天正四年のことであり、信長の勢力は飛躍的にのびていった。