荒木村重異例の出世

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 「荒木略記」によれば、荒木氏は丹波八上(やかみ)(篠山町)の土豪波多野(はたの)氏の一族で、一時牢人(ろうにん)して川辺郡小戸庄栄根(おおべのしょうさかね)(川西市)に住んでいた。やがて荒木高村の代、天文・弘治(一五三二~五七)のころ池田城の池田勝正に仕えるようになった。勝正が一族を統率する器でなかったので、村重は勝正を追いだし、その子直政をたてた。しかし直政もまた資質に欠けていたため、これを廃し、勝正の次弟池田知正をたてて、そのもとでしだいに頭角をあらわしていった。
 元亀二年(一五七一)八月、摂津三守護のひとり和田惟政を攻めて、村重の従弟中川清秀が惟政を討ちとる手がらを立てたことは、すでに述べた。翌々元亀四年三月には村重は惟政の子惟長を高槻に攻めて敗走させ、これに代わって村重は茨木城の守将となった。このころから村重は信長に気に入られ、信長の部将として活躍することとなる。元亀四年に信長と義昭の決裂が決定的な段階を迎えると、村重は信長方にあって、四月には義昭を二条第に囲んだ。いったん和睦ののち、七月義昭が宇治の槇島城においてふたたび兵をあげるや村重はまた信長に従って槇島城攻撃の軍に加わった。天正二年(一五七四)には、村重は高山右近友祥(うこんともなが)とともに摂津中島城を攻め、一向宗徒と戦った。このとき村重の軍勢は過半が討死したという。さらにこの年旧主池田勝正、つづいて伊丹親興を攻めて、両者を追いおとしたことについてもすでに述べたところである。
 こうして村重はわずか数年の間に、牢人あがりの一小臣から摂津一国の大名へと、異例の出世をとげた。そして信長から信頼される摂津の大名として、信長の命によって伊丹城を有岡城と改め、そこを居城としたのであった。