以後荒木村重は信長の部将、摂津の大名として各地に転戦する。天正三年(一五七五)には播磨に兵をだし、信長の配下となった御着(ごちゃく)城(姫路市)の小寺政職(まさのり)や龍野城(龍野市)主赤松広英(ひろひで)ら、播磨の諸城主から人質をとる仕事を果たした。さらに信長から天正元年、備前・美作(みまさか)・播磨を与えられていた浦上宗景の本城、備前国和気郡天神山城(岡山県)に兵粮米(ひょうろうまい)を送りこみ、毛利氏に対する西の守りをたすけるはたらきをした。
翌四年、石山本願寺がふたたび信長に対抗し決起したので、信長は三たびめの石山攻撃を開始した。その攻撃軍のなかに村重も部将として名を連ねた。信長は石山本願寺や毛利氏らに備えて、村重には尼崎の海上封鎖を命じ、北野田にとりでを三つ並べて築かせた。また淀川の水路をおさえて、石山城への糧食搬入の阻止につとめさせた。
村重はさらに信長の命を受けて、摂津各地に一〇ヵ所のとりでを築いた。すなわち村重みずから有岡城を居城としたが、尼崎には嫡子村次をおき、高槻には高山右近友祥、茨木には従弟中川清秀、吹田には弟吹田某、西成郡大和田に阿部仁右衛門、能勢に能勢十郎頼通、多田山下に娘むこの塩川伯耆守国満、有馬郡三田に荒木平太夫重堅(しげたか)、兵庫華熊に従兄荒木志摩守村正と、一〇ヵ所に築いたとりでがこれであった。これによって村重は、摂津の海・陸ふたつながらの防衛を固めたのであった。
村重にとって、天正のこの数年間はまさに得意の時代、栄光の時代であった。
天正五年、羽柴(はしば)秀吉らと紀州雑賀(さいが)(和歌山県)攻めに従い、同六年、同じく秀吉らとともに、播磨上月(こうずき)城(佐用郡上月町)を攻囲していた毛利氏と対戦した。