しかし、この天正六年(一五七八)は播磨・丹波の諸勢力、そして摂津の荒木村重にまで、動揺が波及する年となった。当時信長が支配下におさめていた国は尾張以西畿内の地域であったが、その畿内のまんなかには、なお信長に強く抵抗する石山本願寺の大勢力が残っていた。だから中国地方一帯を支配する毛利氏の方が信長よりも広い領土をもっていたといえよう。ことに天正六年の情勢は、毛利氏が播磨において優勢であった。また毛利氏は瀬戸内の制海権をにぎり、九〇〇艘もの軍船をもって海上から本願寺を援助していたのである。この情勢を村重その他の諸勢力が、信長よりもむしろ毛利氏優勢と信じたとしても、けっしておかしくはなかった。
したがって村重だけでなく摂津・播磨・丹波の諸勢力は、いずれも織田と毛利の角逐(かくちく)のうずにまきこまれ、両者の間で動揺を余儀なくされていた。そしてこのころ、おそらく毛利氏からのはたらきかけもことに強くかれらに及んだのであろう。天正六年にはなだれ現象をなして、かれらの、信長からの離反がうちつづく。すなわち二月には東播磨の守護となっていた別所長治(べっしょながはる)が毛利氏に通じ、三木城(三木市)において信長に反した。三月には丹波八上城の波多野秀治をはじめとする丹波の諸勢力を、信長は明智光秀らに攻撃させねばならなくなった。さらにそのうえ六月には毛利方の吉川(きっかわ)元春・小早川隆景(こばやかわたかかげ)によって尼子勝久・山中鹿之助のこもる西播磨の上月城がうばわれた。
こうした情勢のもとで毛利氏のはたらきかけはついに摂津の荒木村重にまで及んだ。十月二日摂津ではなお本願寺との対戦がつづいているなかで、天王寺のとりでにいた細川藤孝(幽斎)から安土の信長のもとに家老がつかわされ、村重に異心のある旨が報告された。そして翌日には他の諸将からも相ついで村重反逆の報がもたらされた。事実、村重はその三日前の十七日に、本願寺顕如と盟約を結んでいたし、もちろん毛利輝元との密約もできていたのだった。