信長はとりいそぎ武井夕庵(せきあん)・惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)(明智光秀)・万見(まみ)仙千代の三人を村重のもとにつかわして、村重をなだめ挙兵のことを思いとどまらせようとした。村重もいちどは承知して安土へ出仕することをきめた。しかし安土の荒木屋敷を預かる萱野(かやの)弥九郎重武がはせもどり「安土では、村重が安土に到着すればさっそく召し捕え従兵もろともことごとく打ちとる手はずである」と注進した。これによって村重は、ふたたび反逆し籠城することを決意した。中川清秀も村重に向かって再三翻意を進言したが、効果はなかった。ついに村重は高槻に高山右近、茨木に中川清秀、池田に嫡子村次をそれぞれ備えにおいて、みずからは有岡城に籠って反旗をひるがえした。
十一月十一日、信長は耶蘇(やそ)会宣教師オルガンチーノ=ソルジを高山右近のもとにつかわして説得し降伏させ、十五日には摂津郡山で右近を謁見している。一方村重の片腕である中川清秀を味方にすれば、村重も翼をそがれた鳥にひとしいとして、清秀に信長方に味方するようすすめた。清秀が降伏すれば摂津で一二万石の領地を与え、その長子長鶴(秀政)には信長の娘をやろうと申入れた。清秀は信長からこのような申入れのあったことをありのままに村重に伝えた。村重は清秀のこの好意を謝し、もはや家運を開くこともおぼつかない、自分にはかかわりなく織田信長に従うようにと清秀にすすめた。そこで清秀も十一月二十四日ついに信長に降伏した。
有岡城を守る第一線高槻・茨木城が信長にくだったので、いよいよ有岡城の攻防がはじまった。天正六年十二月十一日、信長軍は伊丹の北の加茂岸に副将織田信忠、古池田に塩川国満、原田郷に中川清秀、椋橋(くらはし)郷に池田信輝(のぶてる)・同之助(ゆきすけ)、南は塚口に高山右近を配置して、有岡城を包囲した。そしてその包囲はながくつづいた。
村重は翌天正七年九月まで一〇ヵ月の間有岡城をもちこたえたが、ついに九月二日数人の家来とともに城を脱出し、嫡子村次のいる尼崎城に入った。ついで十二月には毛利氏をたよって遠く尾道へ敗走している。同月信長は有岡城を攻略し、残る支城華熊城も天正八年七月二日池田信輝の攻撃をうけて落城した。