天正六年(一五七八)十月から年余にわたる攻防によって、西摂・北摂にも戦禍は波及した。村重挙兵の年、十月から十二月にかけてこの地方で焼亡した寺社は多数にのぼった。宝塚市域では中山寺・清澄寺、山本平井の白山権現が焼亡したのをはじめ、川西市域の多田院・満願寺・栄根寺、西宮市域では広田社・神呪寺それに生瀬の浄橋寺、箕面市域の久安寺・勝尾寺が焼かれた。そのほか桜塚の善光寺(豊中市)・高代寺(能勢町)・惣禅寺(大阪市)・惣持寺(茨木市)・かぶ禅寺・金龍寺(高槻市)も焼亡した。
中山寺については慶長八年(一六〇三)九月豊臣秀頼が再建したときの護摩堂の棟札に、「摂州河辺郡紫雲山中山寺本山者天正年中伊丹城主荒木摂津守村重一乱節兵火、依之仮下院御造立也」とあって荒木村重の兵火で焼失したことがしるされている。また別に残る慶長八年九月の同寺の金堂・鎮守三社・太子堂・十王堂・楼門等の再興のことをしるした木札にも、「本山諸堂為兵火焼失、仮下院建之」とあって、金堂以下ことごとくが村重の兵火にかかって焼けおちたことを推測させる。ほかにも延宝四年(一六七六)の一史料には、村重の兵火で寺が焼け、いまだに再興できず寺僧は鎮守社弁財天の宮地に仮堂を建てて本尊を安置している、としるしている。焼けた中山寺は、今の同寺奥の院付近の山上にあったといわれている。
清澄寺も「天正の兵火」に炎上したし、平井の白山権現については「白山権現伽藍ハ天正六年十二月十三日兵火ニ焼失、伊丹ノ城主荒木摂津守ヲ信長ノ一族攻ル為ナリ」と史料にみえている。
さらに『摂津志』によれば、米谷(まいたに)・安倉(あくら)・川面(かわも)・安場(やすば)の村々は全村が焼亡し、村民は惣川(そうかわ)奥の小屋谷(こやだに)に逃散(ちょうさん)したという。小浜には有岡城攻撃のための信長軍のとりでがあったといわれるが、小浜近辺の米谷以下の村々が戦火に見舞われたことは、じゅうぶん想像できる。