さて荒木村重の従弟として、また村重の部将として活躍した中川清秀は、茨木の和田惟政を討ちとった功により、天正三年(一五七五)九月一日、茨木城六万石の領主となった。その所領は島下・能勢・豊島・川辺の四郡にまたがっていた。またさきにも述べたとおり、清秀は天正六年荒木村重が反逆したさい、信長に帰属し、同年十一月、一二万石を与えられている。この清秀の所領が川辺郡のどのあたりであったかは明らかにはしえないが、豊島郡の神田(こうだ)村がその領村であったことは明らかである。
天正七年信長軍による有岡城の包囲がつづくなかで、四月信長は織田信忠・津田信澄を大将として北摂の征伐をおこなった。主として能勢氏とそれに一味する勢力を服属させることが目的であった。中川清秀は川辺郡に領村をもったこともあって、この征伐の先導を勤めた。能勢郡鷹取の城に能勢義純、山口城には山県国則、止々呂美(とどろみ)城には塩山正秀、片山城に塩山信景、馬場城には松原政時、そして佐曽利(さそり)城には佐曽利筑前守がたてこもっていた。中川清秀は先導となってこの地方の服属に向かったが、この服属は戦闘をまじえずに平和裏におこなわれた。すべて清秀のはからいであった。
佐曽利の城主佐曽利筑前守にも服属を求めて清秀が先手となり、上佐曽利村に人数をさしむけた。はじめ能勢氏に一味していた佐曽利氏は、征伐の軍に対して防戦する姿勢をしめしたが、結局和談によって清秀の味方に参ることとなった。そして子息六之丞重元とともに清秀方の陣に伺候し、ただちに丹波征伐への案内を仰せつかっている。
以後六之丞重元は父筑前守の名代として、清秀が出陣するごとにそれに従軍した。清秀の家来として天正十三年の四国征伐に従軍し、つづいてまた文禄元年(一五九二)の朝鮮侵略にも従った。清秀は天正十三年九月播磨国三木に移封となり、文禄三年にはさらに豊後竹田へ移封になるが、佐曽利氏は中川氏の家来として中川氏とともに竹田へ移り、江戸時代にいたった。