塩川氏の活躍とその滅亡

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 伊丹親興や池田勝正のように国人とまではいかないが、多田地方に勢力をもち、宝塚市域にも所領を有していたと考えられる勢力に、塩川氏がある。古くから多田山下城にあり、多田院御家人のうちでしだいに頭角をあらわしていった。信長が入京した早々に帰順し、村重の摂津守護の時代には、村重の娘むことしてさらに力をのばした。天正四年(一五七六)には多田山下のとりでをでて、石山本願寺の攻撃に参加したが、その陣中にいる塩川国満にあて、四月二十八日信長は朱印の覚書を与えている。敵本願寺の出撃に備えての迎撃その他について指示を与えたものであった。
 六年三月に丹波の波多野秀治が反すると、四月信長は明智光秀に攻略を命じ、塩川国満も明智の指揮下に入って出陣した。ついで十月荒木村重が反すると、娘むことして従来村重に従ってきたいきがかりから、国満は家来を有岡城に籠らせたが、まもなく信長に帰順して荒木攻略の軍に加わった。すなわち六年十二月段階では古池田に、七年四月には加茂岸(川西市)に布陣して、北方から信長の有岡城包囲戦に参加した。荒木の軍はときには多田の地にまで乱入して塩川と交戦することがあった。塩川の家来中村又兵衛直勝が多田院に近い平野村付近で村重の軍と戦い、敵多数の首級をあげたという記録がある。緩急さまざまに有岡城の攻防がつづくなかで、天正六年十一月信長は塩川領にあてたつぎのような禁制をだしている。この禁制が中山寺文書のなかに残っていることは、中山寺が「塩川領中所々」のなかに入っていたことをしめすものであろうか。
 
     禁制
            塩川領中所々
   一、軍勢・甲乙人等乱入狼藉事
   一、陣取事
   一、伐採山林竹木事
  右条々堅被停止訖、若於違犯之輩者速可被処厳科者也、仍下知如件
   天正六年十一月 日
             (繊田信長)
               (朱印)
 
 

写真98 慶長国絵図にみえる多田山下(西宮市立図書館所蔵)


 
 ついで天正七年九月荒木村重が有岡城を脱出すると、信長はまもなく十月二十三日国満を能勢郡木代(きしろ)荘のうちにある、石清水八幡宮の善法寺領の代官に任じた。いままで村重がもっていた同荘の代官職を国満に与え、この荘からあがる年貢の一〇分の一を代官手数料として収得することをみとめたものであった。
 こうして村重没落ののちも国満は多田山下城にあって勢力を保ったが、本能寺の変が起こると、国満は羽柴秀吉の軍に属して明智攻撃の戦いに加わった。秀吉の時代になって天正十一年に佐久間信重・柴田勝俊・故川法印が反したときには、塩川国満・同国義は侍大将として紀州霧坂遠征の軍に従った。
 このように塩川国満は信長の時代から秀吉の時代にかけて、宝塚市域を含む北摂に勢力をふるった。しかしその後、意外に早く塩川氏につまづきがおとずれた。能勢郡に勢力をもち、塩川氏と隣合って互にはりあった能勢氏(頼次)が、天正十四年島津征伐に出陣したが、そのすきに乗じて十月塩川氏は能勢氏に合戦をしかけ、能勢氏の地黄(じおう)城(能勢町)を攻撃した。この行動が秀吉のとがめるところとなり、ついに国満は山下城を明け渡し、切腹して果てた。ここに塩川氏は滅んだ。