池田信輝父子の摂津領有

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 天正八年(一五八〇)七月荒木村重の支城華熊城が落ち、荒木反逆の事件もすっかり終息すると、村重の旧支配地は八月十八日に池田信輝父子に与えられた。大阪・尼崎・兵庫を含む「摂津一国諸所多く」が与えられたのである。領知高にして一二万石であった。信輝は大阪石山城を居城とし、嫡子之助(ゆきすけ)は伊丹城(旧有岡城)に、輝政は尼崎城にいて、父子三人で摂津を支配することになった。石山城は、ついさきごろ八月二日に講和条約をのんだ本願寺教如(きょうにょ)(光寿(こうじゅ))から信長に明け渡されたばかりであった。宝塚市域の一部、中山寺付近には塩川国満の所領があったと思われるが、市域南部はここに荒木村重の手から完全にはなれて、池田氏が領有するところとなったようである。
 久代村(川西市)が信輝・之助の所領であったとする史料があるから、この村にかぎらず宝塚市域の平野部の村々は、おそらく伊丹城にいる池田之助の支配下に入ったものであろう。
 天正十年六月、信長が本能寺の凶変にあうと、信輝はただちに光秀を討とうとしたが、家老伊木忠次にいさめられ、中国遠征にある秀吉の帰着をまつこととした。秀吉はそのとき、毛利輝元の属城備中高松城を囲んでいたが、変報を秘して輝元と和を講じ、すばやく自領の播磨姫路城に帰り、息つくひまもなく畿内へ馳せのぼった。信輝はこれを兵庫に迎え、六月十一日に輝政の居城尼崎城まで同道した。このとき信輝は髪を断って勝入と号し、信長の弔い合戦にのぞむ決意を固めた。そして秀吉とともに軍議し、明智光秀討滅の第一陣は高山右近友祥、二陣は中川清秀、三陣池田信輝、四陣惟住(これずみ)(丹羽)長秀、五陣は神戸信孝(信長の三男)、六陣羽柴秀吉ときまった。こうして信輝も出陣し、山崎の合戦で明智光秀を破った。
 この合戦のあと池田輝政は秀吉・柴田勝家・惟住長秀ら宿将老臣とともに清洲に相会した。いわゆる清洲会議である。信長の遺領は、信長の二男北畠信雄(のぶかつ)に伊勢・尾張を、三男神戸信孝に美濃を継がせることとし、宿将老臣に対する所領の配分も決定した。山城は秀吉が、丹波は信長の四男で秀吉の養子になっている秀勝が、そして摂津は従前どおり池田信輝父子が領有することとなった。
 しかし秀吉は十一年に賤ヶ嶽の戦いに柴田勝家を破り、さらに神戸信孝を除くに及んで、しだいに天下の統一者としての自覚を強めていった。そして信長の旧領全体にわたって転封政策を実施し、これを豊臣大名に転化すること、自己の家来を新しく大名に取りたてることをめざすようになった。とりあえず畿内政権として、権力の中心を大阪におくことを考え、この政策をすすめる必要から、五月二十五日に、信輝を美濃国大垣に、之助を同国岐阜に、輝政を同国安八(あんぱち)郡池尻に移し、大阪は秀吉みずからが領有することとした。
 池田信輝父子の摂津領有は、こうして天正八年から十一年までわずか三年たらずで終わった。信輝父子の転封にともない、尼崎には信輝と婿(むこ)の盟約を結んでいた三好秀次が配置された。秀次はのち天正十九年に秀吉の養子となって、関白となったが、かれもまた天正十三年閏八月二十二日には尼崎から近江国四三万石に移された。そして尼崎城とその領有地は秀吉の蔵入地となったと思われる。すでに述べたとおり、天正十四年には北摂の塩川氏が秀吉によって討滅されているから、宝塚市域の村々も、この塩川氏の支配か、もしくは池田之助-三好秀次の支配をへて、天正十三年か十四年には秀吉の蔵入地か、もしくは近臣の所領に移行したものと推測される。