毫摂(ごうしょう)寺は、近世初頭市域村々の経済的中心となる町場、小浜町を形成する核となる真宗寺院である。
鎌倉時代の末、丹波の人乗専(じょうせん)は本願寺覚如(かくにょ)(一二七〇~一三五一)に帰依して丹波六人部(むとべ)にあった天台宗の寺を本願寺に寄進し、覚如の別号をとって毫摂寺と号した。『摂津名所図会』はこの寺を丹波から京都へ移したとしているが、京都にでた乗専が住持となった出雲路(いずもじ)の毫摂寺がそれであろうか。乗専はやがて覚如の末子を請うて、この寺の後住としている。寺の第二世善入である。その後善幸の代、おそらく応仁・文明の乱(一四六七~七七)のときと思われるが、京都の兵乱で焼けた。善幸の長子善秀はそのあとも京都に残ったが、次男善鎮と三男善智は、化益のために越前横越(よこごし)(福井県)に下った父善幸について越前に同行した。善鎮は横越の証誠寺をついだが、やがて山科本願寺の蓮如(一四一五~九九)に帰依し、その門下に入って正闡(しょうせん)坊と号した。その系統は加賀大聖(だいしょう)寺の毫摂寺となり、その分派に越前武生(たけふ)の陽願寺などがある。京都に残った善秀のあとは、乗専がつちかった畿内の門下を掌握して、小浜の毫摂寺となったといわれる。
小浜毫摂寺の建立年代は不明である。元禄十四年(一七〇一)岡田徯志が撰した『摂陽群談』は直接毫摂寺の建立にふれてはいないが、善秀が明応年間(一四九二~一五〇〇)に小浜庄を開いたとしていて、寺の建立が明応年間ともうけとれる叙述である。
蓮如の孫証如の『天文日記』は天文五年(一五三六)から同二十三年までのことが記述されており、そこには毫摂寺の名がしばしばでてくる。だがそれはかならずしも、小浜毫摂寺をさしているとは断定できない。もっとも『本願寺史』(第一巻四五七ページ)は、この『天文日記』によって、証如の代に本願寺になんらか関係のあった寺々を列挙し、そのなかに小浜毫摂寺の名を挙げている。
さらに順興寺実従がしるした『私心記』の永禄三年(一五六〇)二月十一日の条につぎの記述がみられる。
朝早々ニ湯山口入也、船ニテカラサキヘ行、富田ヲ通候テ瀬川ニテ中食シテ、小浜マデ行、野ニテ島川スヾヲ持来候、毫摂寺ヨリ役所アツカヒ侯、三ヶ所也、カゴヲカリ候テ、小浜ヨリ乗候也、池坊ヘ人遣候テ、宿ヲカリ候也、弥七ト云者也、○湯ヘ一夜三度入
実従が摂津富田・瀬川(箕面市)・小浜を経て湯山(有馬)に入湯した記事であり、ここにみえる毫摂寺は明らかに小浜毫摂寺のことである。以上のことからみて、明応年間とはいえなくても、一六世紀の前半には、すでに毫摂寺は建立されていたとみてよいであろう。