一五世紀、そしてとくに一六世紀になると、畿内で真宗寺院の寺内町が族生した。すでに本願寺八世蓮如(一四一五~九九)の代に、摂津には富田・平野・堺北庄、河内では久宝寺・枚方(ひらかた)・出口・萱振(かやふり)・蔀屋(しとみや)などに真宗の寺や道場が建てられた。これらの寺や道場の存在を背景に、九世実如の代に石山御坊=石山本願寺が開かれた。このような真宗の発展と表裏の関係をもって、寺内町としての在郷町が形成されたのである。そして一〇世証如(一五一六~五四)の代には、河内では八尾・古市・誉田(こんだ)・富田林なども発展をみせた。
これらの寺内町は、交通の要衝に布教の目的で建設されたが、多くの場合、町の回りに土居をめぐらし濠(ほり)を掘り、四方に柵門を設けている。他宗の信徒や領主の攻撃に対して防御できる要地を選んだといえよう。小浜もまたのちに図示するとおり(三九〇ページ)、地形的に池と谷をめぐらしていて、いかにも一六世紀に建設された寺内町にふさわしい町場の形を呈している。瀬川・池田、あるいは西宮・伊丹から有馬・三田に至る街道の、古くからの要衝であったと思われるこの地をえらんで、一六世紀前期に毫摂寺が建立され、それを中心とする寺内町として、一六世紀にはすでに町場化がすすんだとみてよいであろう。
ただ右に述べた摂津・河内の寺内町では、信長の時代にはいずれも信長に対する一向宗門徒の強い抵抗の動きが伝えられているのに、小浜についてはそれがみられない。そればかりか天正六(一五七八)年の荒木村重の乱のさいには、中山寺・清澄寺、平井の白山権現が戦禍を被っているのに、毫摂寺についてはなにも伝えられていない。またこのとき付近の米谷・安倉・川面・安場の村々が焼かれているのに、小浜には有岡城攻撃の信長軍のとりでがあったといわれているのみで、当時信長と一向宗小浜毫摂寺との関係がどうであったのか、まことに不可解な点が多い。