明治四十四年(一九一一)三月八日当時川辺郡小浜村のうち安倉字柿畑(現安倉北三丁目)で村民一三人が畑地を開墾中、天正菱大判金三枚、慶長丁銀とその切銀などの入った素焼のかめを掘りあてた。大判金は長径一二・一センチメートル、幅八・〇センチメートル、量目一六五グラムのもので、表面に「天正十四 拾両 後藤(花押)」と墨書されている。表面二裏面とも上部にひとつ、下部にふたつ桐文菱形(きりもんひしがた)の極印をおしているので、菱大判といわれている。品位は不明であるが、天正十九年の天正菱大判金は、金が千分中七三八・四、銀が残り二六一・六であるから、安倉出土のそれもほぼこの程度のものであろう。表面に墨書されている後藤は後藤徳乗光次(とくじょうみつじ)のことで、豊臣秀吉から命じられて鋳造の任にあたった人である。その子孫もまた幕末まで大判金鋳造の任にあたっている。
安倉出土の大判金は内務省に買いあげられ、東京帝室博物館(現東京国立博物館)に収められたが、今は失われてわずかに写真(『本邦通貨之事歴』昭和二年刊所載)でその様子をうかがうにすぎない。しかし写真でみるかぎりでも、鎚目(つちめ)が粗野で、力強さがあふれており、桃山時代独特の空気をただよわせている。
この天正菱大判金はただ市内安倉から出土したというだけで、鋳造地であったなどというゆいしょがとりたててこの土地にあるわけではない。またなぜそれがここに埋められたかなどについても、いっさい不明である。したがって市史に載せることの必然性に乏しいものであるが、いちおう出土品の写真と出土地点を地図にあらわして、記録にとどめることにした。