安土桃山時代には、右に述べた天正菱大判金をはじめ、天正大判・大仏(だいぶつ)大判・古(ふる)大判・太閤大判・譲葉(ゆずりは)大判・天正長大判・天正小判・太閤但馬小判・天正二分判・太閤円歩(まるぶ)金・大坂一歩など種々の貨幣の発行がみられた。この時代は鉱山の採掘技術が進歩し、国内産金高が激増した。しかも全国の主要金銀山を秀吉が手中におさめたことによって、はじめて統一政権が全国に流通する貨幣を発行することができた、ということができる。
それとも関連して、市域西谷地区が織豊(しょくほう)政権期に多田銀銅山の一角を構成して銀・銅・紺青(こんじょう)石を産出した地域であったことについてふれなければならない。
いわゆる多田銀銅山は、川辺郡猪名川町を中心に、川西市・宝塚市・大阪府豊能郡にわたる、東西・南北とも十数キロメートルにひろがっている。このうち親鉉(おやづる)といわれる主要鉱脈で古い歴史をもつものは二筋ある。ひとつは川西市国崎(くにさき)付近の奇妙山親鉉、他のひとつは猪名川町銀山を中心とする地区の銀山親鉉で、ともにほぼ南北に走っている。
歴史が奈良時代にまでさかのぼると伝えられているのは奇妙山神教間歩(まぶ)であるが、桃山時代にもっとも盛大に採掘されたのは、銀山親鉉の瓢簞(ひょうたん)間歩・台所間歩・千石間歩であった。瓢簞間歩は室町時代に盛山となり、天正年間秀吉の時代にはおびただしく銀・銅の鉑石(はくいし)(鉱石)をだして、大いに栄えた。これによって秀吉は、山先(はじめてその鉱脈を発見した山師)原丹波・原淡路の二代に賞として馬印の千成瓢(せんなりひょう)を与えたので、この間歩を瓢簞間歩とよぶようになったということである。台所間歩も秀吉の時代に大いに栄え、そこからでる鉑石の益銀(えきぎん)で大阪城の台所の入用をまかなったので、そういう名がついたという。千石間歩もまた秀吉のころ月々一〇〇〇石の運上銀を上納したので、この名がでたということである。そして銀山経営のためには、銀山町広芝に陣屋を建て、旗本岸島伝内・川瀬八兵衛を奉行とし、足軽・同心二〇〇余人をおいて銀山口を守備したと伝えられる。