この銀山親鉉の間歩が、安土桃山時代の多田銀銅山における中心的間歩であったが、それから分かれた枝鉉が市域西谷地区を走り、それがまたこの時代に盛期を迎えていた。長谷村・下佐曽利村領内の千本間歩と南切畑村領内の紺青石をだす諸間歩である。
「多田銀銅山来暦申伝略記」によれば、長谷村口千本・下佐曽利村奥千本とも「足利家ノ御時発起」とあり、千本間歩は室町時代に大繁盛し、銀・銅を多量にだした。鉱民その他の人家は数百軒、寺は久徳寺・三蔵寺など五ヵ寺にのぼったという。しかしその後中絶し、元亀年間(一五七〇~七二)にふたたび盛んになり、天正年間(一五七三~九一)に至って出鉑が相ついだ。だがようやく間歩が深くなって、わき水が激しく、ついに閉山し、千本間歩の鉱民は繁栄をつづけている瓢簞間歩の方へ集められ、久徳寺なども鉱民とともに同所の近傍へ移ってしまった、と伝えられている。
一方南切畑村領内には、江戸時代に紺青間歩・宮之上間歩・入木谷間歩・金精山間歩・金精山大盛間歩など三八の間歩があった。その三八の間歩のうち右にあげた間歩は天正年間に至って紺青石を多量にだすようになった。豊臣氏は天正十四年(一五八六)六月三日、朱印状をもってこれらの間歩を絵所狩野山楽(かのうさんらく)に与えた。そのため紺青(青色顔料)を精製する鉱民が、多数ここに住むようになったという。